陽気な死人---ボードレールのいい加減拾い読み
石川和広

僕は、時々、ボードレールをぱらぱら読みます。
なんだか、とても気が楽になります。気が楽になるというのも変だろうけど、あんまり、考えなくていいなあ、流し読みするのに気楽だと感じます。

ところで、この文章には、タイトルこそあれ、ただ、目で追って良いくらいのノリでしか、書く力を入れてないので、どんどん
詮索して頂いて結構です。

僕はフランス語は読めません。ベンヤミンという哲学者がボードレールについて、書いているのは、読んだことがあるようなのですが、あまり記憶がありません。ベンヤミンの文章も深く探求すると、意味が拡散して、読解が困難になるようなきがしますが、カフカについて、かかれたものは、カフカ研究書の中では、いちばん?というても世界中に、たくさん研究者がいすぎて、適当に言ってしまいますが、さらりと読めますなあ。

陽気な死人という詩を「悪の華」からみつけたけど、なんだかあまり面白くないような気もしてきましたが一節だけ引きます。


  さあ くよくよせずにおれの残骸を通りぬけて、
  言ってくれ まだ何か苦しめる手段が残っているか
  魂もなく 死者のうちでもとりわけ死んでいる この肉体を!


「通りぬけて」や「とりわけ死んでいる」というところに、ボードレールの素敵さがあるなあと思い、しかし、だからなんなんだと言う感じもいたします。
要は僕は、この人の詩は、どういう意味で書いてるかオレにもわからんと投げ出された、果敢な詩だとおもったりするわけです。とりわけ死んでいる、なんてもう遺体も、その名残もないというてるに等しいきがします。

むかし、ヘンリーミラーが、ヒトラーに勝つ方法は、みんなヒトラーに降参することだ、そうすると敵が欲しい彼は狂い死に、するだろうといったことを思い出しました。
これは、読みを殺すひとつの手だと思います。あとで、みんな真似し出したので、このタイプの詩は古典の中に入ってますが、批評殺しは、批評は解剖にやっぱり似てる気もするので、そういう手さばきを示したい方々は、こういう元祖!批評殺しの詩を読んで、研究により、みがきをかけるというか、あほらしさを頓服として飲んでみるのも、逆に元気が出るような
気がして、よいかなと。

単純に死にきるって難しいですね。ナチスだって遺体を再利用したわけですから、再利用できない。つまり循環を拒むとか、安直なリサイクルにはのらない。

ただ単に何も考えず書いたら、こうなったというには、割にふか読みで来てしまうのが怖いです!この人何者?

落ち着きますか点点と

他に「あほうどり」という詩人をあほうどりに、なぞらえて、水夫に捕まえられるという詩も書いています。
彼の妄想も、入ってるのだろうけど、読まれたくない詩を書いた。逃げるが勝ちと考えた。この浅はかかつ、懸命な読みとの戦いに真剣にダラダラ取り組んだ詩人をも歓待する人はいるのでしょうが、たぶん、こんな「あほうどり」をつかまえるのも、鳥になるのも馬鹿馬鹿しいながら、こう、風に乗るのが、ボードレールの僕の拾い読みの仕方だったりします。



#引用文献「悪の華」ボードレール著 安藤元雄訳 集英社文庫1991


散文(批評随筆小説等) 陽気な死人---ボードレールのいい加減拾い読み Copyright 石川和広 2004-11-28 17:26:22
notebook Home