詩と宿命
yamadahifumi

 かつての詩人は宿命的であった。中原中也や萩原朔太郎、そして吉本隆明や田村隆一といった詩人もまた、部分的には宿命的であった。彼らの詩が良い詩であるということと、彼らの詩が一つの宿命の主調音を奏でているということは別事ではない。・・・ただ、現代において、人間不在の思想が流行り、テクストという言葉が研究家達に一般に用いられるようになってから、人間の宿命ーーーいわゆる一人の作者の宿命は軽んじられるようになった。そして日本の数多の研究者(と称する)連中もまた、そうした時流にのって、作者不在の哲学や詩論、詩をものした。・・・だが彼ら(日本の研究者達)が誤解していたのは、そうした西洋ーーーフランスの構造主義連中は個人として、作者不在の、「無」としての宿命を背負っていたということだ。彼らは徹頭徹尾、論理的で思推的な人々ではない。それはあくまで「無」という宿命を背負わされた個人なのだ。
 こうした事を人々は無視することによって、あの現代に独特な、華やかで論理的であり、知性的でもあるが全体としては何か空疎な、何かが欠けているような知の地盤ができた。・・・彼らがその根拠をどれほど過去の賢人に求めようと、空しいのだ。彼らのそれには内的な根拠が欠けている。「無」の哲学ですら、無という悲劇を個人が背負っているのだ。(フーコーを見よ。)彼らには内的根拠が欠け、また知的なものへの憧れはあるが、現在を越えるための手段としての知性はない。・・・そして過去の知性とは現在の現実を越える為に人間が表した一つの内的手段だった。彼らは現実を越えるために書いたのだ。・・・知的なものに信奉するためではない。知性とは宗教ではない。そうしたものに入れば、ただちに価値を認められるようなものではない。・・・人はカントの哲学を見る時、その知性を食い破って、その奥にあるものまで見なければ真に「見た」とは言えないのだ。
 偉そうな事を書いたが、現在の詩もまたそうだと思う。詩に、一つの宿命が感じられない。従ってその詩には内的根拠が乏しく、(華美だが)どうしてもその詩に入り込めない。それは詩人そのものが一つの宿命を、「人生」をーー持っていないからだ。・・・これは現代の詩人が生んだ問題ではない。だが手をこまねいていては何もやってこない。我々というのは生まれた時から「人生」をーーー従って「宿命」を剥奪されているのである。生まれた時から人々は一つの「価値観」というレールに載っている。そして世の中は「こんなものだ」と皆が思う。すると世の中は本当に「こんなもの」になる。・・・我々の詩が凡庸なもの、見せかけだけの奇異さや知的な装飾に頼る所以がここにはある。
 だから我が詩人に向かって、私達はこう宣言し、号令をかけなければならない。
 「詩人よ!一人の人間であれ!実人生を持て!」と。
 実際の所、一人の人間でなれば一つの詩も生まれないのだ。社会と葛藤し、自己自身を生み出さなければ、簡単とも思える詩一つをひねり出すことも凡庸な人間にはーーー(いや、天才でさもーーー天才というのは正にこの社会と葛藤し、自己を生み出すものだからーーー)できない。詩というの宿命が奏でる一種の音楽である。だが我々現代人にはそれが欠けている。それが欠けている状態で生まれる。・・・だからこそ、詩人になるには、まず、それをどうにかして生み出さなければならないのだ。・・・どうやって?・・・その問いには答えられない。それを生み出すことこそがーーー正に人生という大きな問いについての答えだからである。君は方法論のない、君自身の人生という大海に向かって漕ぎ出さなければならないのだ。ーーー君が詩人になるかどうかという問題はさておいても。




散文(批評随筆小説等) 詩と宿命 Copyright yamadahifumi 2011-12-21 10:58:18
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