ボクのマスターベーション(3)
花形新次

 明日人に会うので、伸ばしに伸ばした髪を切りに床屋に出かけた。逗子駅前にある床屋で、中年の男性とその母親と思しき女性の二人でやっている。男性の方は、すっとした二枚目で、恐らくサーフィンか何かをやっているのだろう、一年中浅黒く日に焼けている。二人とも物静かで、必要以上の話はしない。だからと言って愛想が悪いわけでもない。店内にはいつも静かにジャズが流れていて、落ち着いた感じがとてもいい。僕のお気に入りだ。
 ここは、僕の十七になる息子の行きつけでもある。
 息子には自閉症という障害があるので、いつも妻が連れて行く。
 実は、僕は息子と一度も一緒に行ったことがない。
 息子がまだ小さい頃、よく突然パニックを起こすことがあって、僕は息子を連れてどこかに行くということがとても苦手だった。だから、こういったことは、ほとんどすべて妻にやらせていた。今は息子も成長して、もうパニックを起こすこともなく、傍目には普通の十七歳の若者と変わりなく行動できるようになった。これなら、僕でも連れて行けるなと思い始めていた矢先、今度は逆に息子の方が僕と行くのを嫌がるようになった。僕としては、変化を極端に嫌うのが自閉症の特徴のひとつだから、これは仕方ないことなんだ、と自分に言い聞かせてはいたが、普通に考えれば、「調子良すぎるよ、あんた。」と思われているのだろう。決して息子がそう口にすることはないけれど。
 だから同じ行きつけの店なのに、僕と息子が親子だということは、店の二人には知られていなかった。
 
 僕は八時半の開店と同時に入り、一番乗りでやってもらうことになった。しばらく客は僕一人だった。僕は頭を触られると眠くなる性質なので、店に流れるキース・ジャレットのピアノを聞きながら、うつらうつらしていた。
 男性に散髪してもらい、女性にひげを当たってもらっているとき、店のドアがカランコロンと鳴り、客が入って来た。僕は仰向けの状態で、見ることが出来なかったが、声で母親とその子供の二人連れだと分かった。そして、子供には、障害があることも分かった。常連なのだろう、店の二人のいらっしゃいの言葉がいつもより親しげに聞こえた。
 「この子風邪気味で、少し咳をするんです。でも今日はグループホームから戻って来ている日で、どうしてもこちらで散髪をしてもらいたかったので、ご迷惑とは思ったんですが来てしまいました。マスクをさせますのでよろしいですか。」母親が申し訳なさそうに言った。
 「全然大丈夫ですよ。」と男性が優しい静かな声で答え、女性も「気になさらないで。」と言った。
 母親はホッとしたように、「ああ、よかった。ありがとうございます。」と言い、子供をイスに座るよう促した。
 「いつもの通りお願いします。」母親が言うと、店の男性は「はい、わかりました。」と答えた。
 すると、直ぐに別の客がやって来た。年配の男性だ。店の二人が「いらっしゃいませ。」と言うと、子供が同じように「いらっしゃいませ!」と大きな声で言った。それを聞いて、店の二人も母親も笑った。客の男性だけが、訳が分からず、キョトンとしているのが何となく分かった。
 店の男性は笑いながら、子供に向かって、「ありがとうね。」と言った。
 
 やり取りを聞いていて、僕には思わずグッと込み上げてくるものがあった。僕はタオルを顔にのせられていたけれど、涙が溢れそうだった。
 きっと僕の妻と息子も同じなんだと思った。いつも、拒絶されるのではないか、というような不安な気持ちを抱えていて、ビクビクしている。しかし、世の中はそんなに冷淡ではなくて、ちゃんと迎え入れてくれる人がいる。そしてそんなことを繰り返して日々過ごしているんだと。
 タオルを外し、上体を起こされ、鏡に映った僕の目は真っ赤だった。

 支払いをする際、レジに立った女性に言ってみた。「いつも、息子がお世話になっています。」
 女性は「えっ。」と少し驚いた様子だった。僕が息子のことを話すと、直ぐに分かったようで、「ああ、あの子のお父さんなんですか。」と言った。
 「いつも、ご迷惑をお掛けしていると思います。」と頭を下げると、「いいえ、すごく大人しくて、良い子なんですよ。」とニッコリ笑った。
 女性は、男性に向かって、「ほら、あの子のお父さんですって。」と言うと、男性は「いつも、ありがとうございます。」と、こちらも微笑んで言った。
 僕は、二人に、「これからも息子をよろしくお願いします。」ともう一度頭を下げた。
 ふたりは「こちらこそ。」と言って、やっぱり頭を下げた。

 ドアを開けると、12月の冷たい空気に、カランコロンがいつもより綺麗に響いた。 


散文(批評随筆小説等) ボクのマスターベーション(3) Copyright 花形新次 2011-12-17 12:54:19
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