口伝
角田寿星
二〇一〇年夏。オーケストラのリハーサル。
まだ若い、俊英と称される指揮者が壇上に立つ。
曲の中途。世界的な老指揮者が駆け寄り、大きく両手を振って演奏を止めた。
ここは指揮棒を叩くんだ。なぜならこの曲は、闘いだから。
助言を受けた若い指揮者は、戸惑いを隠さなかった。
武満徹『ノヴェンバー・ステップス』。
この静謐な曲の本質が、
闘い、である、とは。
一九五五年六月九日。『交響的組曲《ユーカラ》』初演の日比谷公会堂で。
二五歳の武満徹は、客席脇の階段に崩れ落ちるようにして、
これは、早坂さんの遺言のようだ。
と声をあげて泣いた。
作曲家早坂文雄の身体は、既に病魔に侵されており、
わずか四カ月後に生涯を閉じる。享年四一歳。
日本独自の西洋音楽という、
鬼気せまる覚悟で天才たちが希求した、
壮大な矛盾。
一九六七年十一月九日。『ノヴェンバー・ステップス』が初演された。
ニューヨーク・フィル、指揮は小澤征爾。
西洋の管弦楽に琵琶と尺八のソロパート。
そもそも、琵琶と尺八の組み合わせこそが異色だった。
ちがう地平を長らく歩んできた、
伝統的な邦楽ではけして顔を合わせることのない、ふたりの楽器。
琵琶奏者、鶴田錦史。尺八奏者、横山勝也。
この曲が世界各地のオーケストラで演奏されるようになっても、
琵琶と尺八のソロパートだけは、
そのほとんどをふたりで奏でてきた。
武満徹が尺八の音を、
垂直に樹のように起る。
と表現したのには、理由があるのだろう。
琵琶の音が、落ちていく水滴、
ひろがっていく波紋ならば、
尺八は、時に咆哮にまで増幅する風である。
思うに彼らは演奏しながら、
異質の領土に、
垂直の楔を打ち据えつづけてきた。
ひとりの琵琶奏者が。
ひとりの尺八奏者が。
ひとりの作曲家が。
ひとりの指揮者が。
武満が往き、鶴田が往き、横山が往った。
あおい水のような炎を持ったまま。
小澤だけが残った。
ふたたび二〇一〇年、夏。
オーケストラのリハーサルで。
ここはこう振りなさい、小澤の助言は止まらない。
若き指揮者、下野竜也は、本来の生真面目さで、
小澤のことばを拝聴する。
『ノヴェンバー・ステップス』。
水墨画のような曲だと思っていた。
下野の解釈が根底から覆されながらも、必死に、漏らさぬように。
ぼくは下野竜也の、いや、下野くんの
才能と努力の質を知っている。
友人の一歳下の後輩で、ほんの僅かな間、
同じパートでトランペットを吹いた。
二二歳まで九州のはじっこで、ほとんど独学だった。
吹奏楽部の学校交流会。皆を和ませようとして、
上半身裸の太鼓腹で、腹踊りをしてみせた。
下野くんはそんな人だった。
大地にいくつもの楔が打ち込まれている。
ぼくはそれをみて、立ち止まろうとする。
楔だ。
ああ、楔だね。
よくわからない。腕組みをする。
よくわからないまま、ふかく肯いて、
とおり過ぎる。
二〇一〇年九月五日、松本市。
下野竜也指揮『ノヴェンバー・ステップス』開演。
「世界のオザワ直伝の」という枕詞が付く。
指揮も二代目なら、
琵琶と尺八のソロも二代目だった。
そして、まだ彼の『ノヴェンバー・ステップス』ではなかった。
彼の戦歴は、彼の眼差しが物語っている、
にもかかわらず。
きっと、ここからはじまるんだろう。
ここから。ぼくは自分に言い聴かせるように。
二〇一〇年一二月。
ニューヨーク、カーネギーホール。
下野竜也は、
再び『ノヴェンバー・ステップス』の指揮棒を執った。
いったいどんな応えをみせたのだろう、と
その行方を、ぼくはまだわかっていない。