泥と口紅
飯沼ふるい

深い井戸で口を開く女の陰部
押し広げられた涯の口紅
それを覗いてしまった僕の背中に戦慄した芋虫が這う

民話の語り口から滴る古い童心を奪われ
錆びた鋸が林立する平野は黙って火を食み続ける
その火に揉まれた井戸の焦点から
つんぼの夕陽が朽ちていく

年寄りの男の額に刻まれた渓谷のような皺の断崖に樫の樹の根が食い込む
分厚い手のひらが煮え立つ物語を包み込む
その柔らかい愛撫によって彼の物語は井戸から掬われる
何処に行く宛もない舌先の震えのために語ることを求めては
頸椎の芯に住む鈍い蜂に沈黙を注がれる
世を綴じる糸となるのは病と諭された沈黙の人が引っ掻き残した傷痕
語られなかった物語の苦渋こそが足元に広がる粗相の海の原質となる

風も凪いでいるのにさざめく海の心理の中心点では
砕かれた林檎のような女陰が永遠を再生して咲き続けるのを止めない
鏡を覗くようにその輪郭を描写するとそれは確かに嘲笑いを浮かべている
背中を嘗める芋虫や額に蠢く樫の根、肉に埋もれる蜂
自然な異物に飼い慣らされた自画像を見透かされている

皮膚が井戸へ溶け落ちてしまいそうになる
その甘い感覚に目眩しながら
僕は静かに井戸の蓋を閉ざして果てた


自由詩 泥と口紅 Copyright 飯沼ふるい 2011-12-09 21:12:12
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