浮遊霊
ホロウ・シカエルボク
死神の舌のような夕暮れのなかを、ひとりの少年が路地の影に向かって歩いてゆく。かれには親が無く、生い立ちが無く、名前が無い。まともな言葉を知らず、まともな服を持たず、まともな道徳を持たない。理由が無く、意思が無い。姿無き糸、姿無き指に操られるように、路地の影に向かって歩いてゆく。他にすることが無いからこの街にある路地をすべて歩いた。もう誰もかれ以上にこの街の路地を歩いたものはいない。かれは鳩が地形を記憶するみたいにこの街の全ての路地の出来事を記憶している。たとえば今日、どの路地でネズミが毒団子を食べて死んでいたか、どの路地で少女が変質者にひどい目にあわされたか、かたちのよく判らないかげのようなものがどこにうずくまっていたか、あらゆる窓にかけられていた洗濯物はなに色がいちばん多かったか、など、すべて判っている。だが、それがなにを意味しているのかはまるで判らない。ただ地形のように記憶している。かれは一日の色が変わることだけを楽しんで過ごす。明るくなると隙のある店から果物を盗む。よほどの気まぐれが起こらない限りそれがかれの一日の食事になる。だからかれの造作はアイヌの木彫り細工を思わせる鋭角な線ばかりが目立つ。年のころは5、6だろうか、しかし時間の流れからはぐれたようなぽかんとした目つきは、そんな判断を確かなものと落ち着かせてはくれない。ささやかな営みだけが紙芝居のように繰り返されるこの街では、かれに気付くものはほとんどいない。野良猫と野良犬だけが、かれが一日そこらを歩いていることを知っている。かれはこの街の影のようなものだ。かれは街中の路地をうろつきながら、一日の色が変わるのを楽しむ。通りの先で、頭上の窓で、ごみ捨て場のミルクパンの穴の開いた底で、その日の光が反射するのを楽しむ。とくにその光が自分の目の真ん中をまっすぐにとらえることをかれはもっとも好む。それはかれにある種の解放を連想させる、もちろんかれ自身はそんな風には理解していないけれど。かれは歩きながらさまざまな反射を目に焼き付けてゆく。そこにはかれがそれを見たという事実だけがある。どんな感情もそこには含まれない。ときどき猫がかれを呼びとめる。かれは振り返る。そしてその猫としばらく見つめあう。かれはそれが猫であることを知らない。猫にはかれがどういうものであるのかよく判らない。だからこそ呼びとめてしまう。声は聞こえるみたいだ、でも他には?猫にはそれ以外を確かめる手段は無い。かれのあの見えているのかいないのか判らない独特の目のなかには、親猫に行ってはいけないと釘を刺された地域のような冷たさを感じる。猫はきびすを返してかれから遠ざかっていく。かれはまた向きを戻して路地の先へと歩いて行く。あらゆる街の路地にはかならず、死を担う一角がある。なんらかの理由で生きてる人間が寄りつかなくなった一角が。かれはそんな一角にある廃屋のひとつを住処にしていた。それはもとは町医者が経営していた小さな医院で、その医者は年老いてから流行病で死んだ。それ以来誰も住んだことは無い。もしかしたらその一角で最初に空家になったのはその建物かもしれない。かれはその家の鍵を持っている。初めてそこを訪れたとき、玄関脇に並べてあったからの植木鉢に躓いて転んだ。そこに鍵があった。おそらくはもう誰もそこにあることを覚えていない鍵が。街が暗くなるとかれはそこへ帰る。そして朝までぐっすりと眠る。日がな一日歩き続けているおかげで、眠れないということが無い。かれはもちろん風呂に入らない。けれど不思議なほど体臭は無かった。食べ物のせいなのかもしれなかった。歯も磨いたことはないが、虫歯になったこともなかった。まだ風邪ひとつ引いたことが無く、腹具合が悪くなることもなかった。死神の舌のような夕暮れのなかをひとりの少年が路地の影に向かって歩いてゆく。あなたが路地の奥で羽ばたきのような小さな足音を耳にするとき、そこには影に向かって歩いてゆくかれの姿があるかもしれない。