雑感 4
るか


 詩は修辞ゼロでも成立する。修辞と非修辞(公用的な用法)の間に本質的な区別はありえない。何ら工夫のない新聞記事や公文書の記述にも私たちは比喩的な意味を嗅ぎとることが可能である。書き手が公用的な意図を持って発話し、それを読み手が公用的な意図を持って受容するならば、誤解の可能性は相対的に小となるだろうが、そもそも公用的な受容と修辞的な受容の区別じたいが相対的であって、修辞表現を言葉通りに受け取る事も珍しくはない。そこに絶対的であるかのような線を引くことは外的な(社会的な)力であるが、表現自体には本来そのような区別はない。ただし一度引かれた公用的表現と修辞表現の間の線に基づいて成立する修辞表現はある。たとえば「たとえば」という語は、あるいは「のような」のような語は、「これは修辞表現である」というメッセージを既に含んでいるものとみられる。じつは修辞を公的用法と区別して修辞と呼ぶこと自体が既に公的な秩序作用を受け入れることである。それは詩=修辞、の立場を取るならば尚更、詩の公的秩序への従属と奉仕を意味しうる。だが果たして詩は「言語」に奉仕するものであるや否や。事態は逆であり、言語の根源的な生を回復し、理想状態を少なくとも可能性として有するものが「詩」であるのかも知れないのだから。言葉を介しての世界との、他者との交感。
 


散文(批評随筆小説等) 雑感 4 Copyright るか 2011-11-28 22:41:24
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