死と解釈のふるまい
kaz.

以前投稿した「書くということについて」を読み返す。執筆当時、お世話になっていた文学極道で作品の質の低下が叫ばれており、ダーザイン氏が代表を降りるなどして、存亡の危機ともいえる状況だった。先の散文には、スタッフに対する私なりの恩と反抗心が、一緒くたになって現れている。今となっては、掘り返しても何も出てこないだろう。せいぜい、掘り返しても何も出てこないだろう、と語るぐらいしかない。

私としては、書いた当時の姿勢だけを評価することにして、あとは一切を無に帰そう。ひとまずいくつかの論理的な不自然さから切り込み、イマージュやコラージュといった用語を取り払って、ここに簡潔な議論を試みるつもりでいる。詩とは何か、文学とは何か、書くこととは何か、という問いに対してさえ、何ら考えを示さない。かつての私の試みは、言語の表示的な側面を誤解していたのであるから。


結局、書くことの自由さを、責任の観念と結びつけた時点で、もうそれは既に書くことの自由さではなくなってしまっている。書くことの自由さとは、『解釈』の自由さであって、『解釈』のできる範囲を、どのような形であれ狭めてしまうことは、文学の可能性を失わせるのだ。『解釈』は、抽象概念や価値観とすり替えられることで、力を失ってしまう。『解釈』とはAである、という定義をしてはならない。かつての私はこの過ちを犯した。今なお多くの人が、この過ちを犯し続けているような気がしてならない。

死の観念について、語れることは少ない、しかし少ないということを語ってしまえば、もうそれで死の観念についての形而上学的分析が出来上がってしまうだろう。死の観念を、理由とか、責任とか、そういったものと結びつけて語ることは、実に危険なことで、もうそれで死の観念のもつ延長が限定されてしまう。この限定化こそが避けるべき倫理問題である。死を出来合いのものと一緒くたにして語ってよいものかどうか、という問いが投げ出されてしまうのだ。

『解釈』についても同じことがいえる。方や自由さを狭める要素として、方や倫理的な問題として現れる、これら一連の“概念からの呪縛”のようなものに、言語学者は語と意味を切り離すことで立ち向かった。そのようなものの見方は旧来から存在していたのだが。その概念の呪縛に立ち向かいたい心理的な欲求は、まさにこの二つの概念の統合から見出されるだろう。語と意味の切り離しという一手法は、概念の優位性を保障すべく与えられていたのである。

だが、まさにこの“概念の呪縛”のようなものが、語の優位性以前に心理的なものであるとしたら、既にこの語と意味の切り離し自体、何のためのものなのかが分からなくなってしまう。本来保障されるはずであった語の優位性は最初から錯覚であり、そこに何ら決定的な心理的欲求が絡んでいないとして、それをどのように証明すればよいか。

これに対する回答は腑に落ちないものとなる。この私が、解釈という概念の不自由さや、投げ出された問いに対して、何らかの関心を示せるかどうかに掛かっており、心理的欲求はあるともないとも言える、と。私たちは思弁的な説明を与えることでそれに満足し、しかし思弁的な説明を与えることによる満足は心理的なものである。しかしその満足の有無さえもが説明を与えうる。このようにして言語は心理的な要因、つまり私を突き動かし、何かを書かせる偶発的な力、いわば核心へ辿り着く契機と、永遠に決別してしまうのだ。


散文(批評随筆小説等) 死と解釈のふるまい Copyright kaz. 2011-11-18 18:12:03
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