空の子ハイヒールは海に溶けぬ
ayano


砂にはまったヒールがおかえりと叫んだ。父親の浚われたあしを探す髪はただいまとうすく笑った。むかしから、彼女の大切なものはすべて海に溶けてしまったけれど、きらいなものは削れ丸くなることなく居座り続けた。
サイズの変わらない木々や波音に消された声を沈めることができないのは、何マイル経っても主と交差しないから。




わたしと海
おとうさんと作ったしろいハイヒールはいつの間にか赤く、海はより一層の青さを増した。海もわたしも自分が青褪めるのを感じながらハイヒールの染色から目を離すことができなかった。後ろに立ってるおとうさんのくたくたの服の裾を握りしめて動けなかった。


おとうさんが遊んでくれないときわたしはめっぽう寂しかった。貝合わせがだいすきだったからそんな女の子らしい遊びにおとうさんは飽きてしまったのだと思った。でも違った。おとうさんは外出が苦手のわたしに靴をつくってくれていた。
そして、わたしが白い絵の具を塗ったの。海色に負けないくらい強い色を味方にすればおそとに慣れると思っていたの。波色とかぶったことに気付いてショックを受けたのは言うまでもないが、それでも外出が増えたのは事実だった。波の痕跡はおとうさんのおひげみたい。そう言ったらおとうさんは傷だらけのゴツゴツした手でわたしの髪を撫でてくれた。


染色は止まることを知らずハイヒールを真っ赤に染め上げた。悲しくておとうさんに抱き着くと服を丁寧に脱がされた。撫でられ舐められ抱かれた。傷だらけの手はわたしの体に触れわたしを傷だらけにしていくのだった。それからのことはよく覚えていない。わたしは仰向けに浮いていた。―――わたし、こんなに小さかったかな。




海と父親
自分は水平線というものを知らない。所謂向こう側をみることができないのだ。その変わりに砂浜のほう、つまりはあの子を見ることができた。あの子はまだ外がこわくて波際を苦手としていた。すぐ父親に抱き着くから、波に侵食される自分の陰というものを知らなかった。吹っ飛んだ父親の足のことも、それによってハイヒールが赤くなったということももちろん知らなかった。蛇足だが、彼女の初潮が近いらしい辜月の昼下がりのことだった。




男と娘
この娘には母親という存在がなかった。死別だった。あいつが死んだ途端にあいつと瓜二つの女児がやってきた。おれはこの娘の父親にはなれない。あいつの葬式の間中あいつを抱き抱えるような感覚に吐き気を覚えた。死んでいない今まだ始まったばかりのこの娘に死への扉からのぞく光を見せようというのか。それはあまりに酷く、泣き止む術さえ知らぬ子を黙らせるために必要なすべてを失っていた。砂浜と混ぜた骨はきらきらしていた。


渡り鳥がおまえを運んできたんだ。雲の上に住むおまえをここに連れてくるようにおれが頼んだんだ。かわいそうな愛しい空の子。すきなだけ泣けばいい。そして泣いたあとのご飯のおいしさを知りなさい。熱いのどに何かがつまる感覚も覚えていなさい。おれは少しずつ強くなっていくだろうおまえに少しずつ嘘を教えていった。


彼女と海にきた。作ってやったハイヒールを履いてふらふらと歩くのを後ろから見ていた。何度か四足歩行をしていた。おれは、わざと砂浜に埋まるあいつを踏んだ。雲がおれを見つけたから。逃げられない。途端にあいつはおれのあしに飛びつきあしを毟りとった。刎ね飛ぶそれ、あふれる血肉、染まるハイヒール。裾を引っ張る女がふたり。




死ぬ前の記憶
あいつを抱くみたいに娘を抱いた。あしが無いことをすっかり忘れて。
ずるずると海に引きずり込まれて彼女の膣内に海水の侵入をゆるした。
砂浜に刺さった赤い靴はステッキとして使えないから、痛んだかかとを舐めてやる。
そのときはじめて彼女は空を見たのだろう。目がつぶされて背が反った。




さがしもの
おとうさんがすきだった。愛してくれたから。おとうさんが水底に沈んでいったとき少しだけ目が動いた。それから、ひとりになったわたしは裸のままおとうさんのあしを探す旅にでた。いろんなものをみた。ざらりとした焼けた肌になってしまったけれど後悔はなかった。探し物は見つからなかった。ハイヒールだけはそこに残っていた。もう二度と履けないけど。おとうさんの死んだ日にはじめて食べたあの、なんと言ったっけ、ああそうだ、ショートケーキみたいだね。―――あれ、向こう側が見えない。



むかしから、彼女の大切なものはすべて海に溶けてしまったけれど、きらいなものは削れ丸くなることなく居座り続けた。おとうさんのあしは見つからない、ハイヒールはそこにある。おとうさんの分だけ水が増えた、わたしの分だけ水が増えた。


大切なものは自分だけよ
おとうさんの味をようやく忘れたの
渡り鳥を沈める仕事はたのしいの
海はわたしにやさしいの




自由詩 空の子ハイヒールは海に溶けぬ Copyright ayano 2011-11-13 14:31:13
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