君の手のひらに触れようとしても、怒らないで欲しい
ブライアン

 長い間音楽を聴かないようにしていた。朝、満員電車に揺られ、つり革に手のひらを乗せ、片手で本を読んでいる。誰の声も聞こえない。電車の走る音が体中に響いている。車内にアナウンスが流れる。次の停車駅を告げる。
 電車が駅に止まるたび、車内は窮屈になる。隣に立つ男性がスマートフォンを触っている。メガネをポケットから取り出し、つける。スマートフォンの画面は彼にしか見れないように加工がされていた。彼の耳にはイヤフォンが押し込まれている。音漏れはしていない。
 本のページをめくる。いすに座った中年の女性が眠りから覚め、窓の外を見る。ここはどこだろう。見たことのない景色にも見えるし、見たことのある景色にも見える。ここはどこにでもあるどこか。隣の男性がスマートフォンから目を離す。あたりを見回す女性に視線を向ける。電車が揺れる。車内アナウンスが揺れに注意を促していた。誰もそれを聞いてはいなかったので、皆がぎゅうぎゅうに詰まった車内で大きくよろめいた。ここはどこだろう。彼女はまだどこか分からない。
 
 目が覚めたとき、どこでもないどこか、にたどり着いていた。あたりは木々に囲まれているが、それらの木々は見たことがない。誰かはそれをきのこと呼ぶだろうし、違う人はそれをアオカビというかもしれない。川が流れているのだが、川には水が流れていない。魚が鳥のように羽を伸ばし、川を泳いでいる。バナナを持った百姓が腰をかけている。ここに座って晩御飯でも食べないか、と誘う。
 まだあたりをきょろきょろとしながら、促されるまま百姓の横に座る。百姓はバナナの皮をむき一口食べた。何も言わなかった。太陽の日差しが木々の隙間から射す。反射する光が交錯して百姓のバナナを切り刻む。百姓は地面に落ちたバナナを見た。かまいたちを捕まえに行こう、と言った。まだここがどこか分からない。導かれるままについていく。すると足の脛に大きな傷がついていた。やられたな、と百姓は言った。やられたみたいだ、と答えた。
 一軒の小屋の扉を開くと、驚くほど暗かった。ここから先が夜というんだ、と百姓は教えてくれた。知っている夜と違う、と言うと、知らない夜があって悪いのか、と言われた。確かにそのとおりだ。今まで知らなかった夜に入ると、脛の傷は治った。と思う。何せ何も見えないのだ。傷口を触ると、小屋の壁面に触れているようだった。不思議に思い、顔をなぞってみると、気持ち悪いからやめろ、と百姓が言った。驚いて、見えているのか?とと聞くと、お前が触りまくっているのは俺の顔だ、と言った。だから、いつもの顔よりも骨ばっていたんだな。百姓に謝る。まあ、よくあることさ、夜の中ではな、と許してくれた。
 夜を越えると、煙突が3本並んでいた。たぶん、川崎あたりの工場の煙突だ。赤と白に色分けされた石油タンクも次第に見えてきた。煙突からは黒い煙がもくもくと出ていた。煙はすぐに雲の一部になった。青い空に吸い込まれる。小さな黒い点に見えるのはたカラスだろう。自由気ままに黒い点は動いていた。カラスの唯一の目的は、どうやらこの電車から遠のくことらしい。小さな点はますます小さくなり、目では見えなくなった。

 電車が駅に止まる。目の前に座った女性は駅の名前の書かれた看板を見つけ、ほっとした様子だった。隣の男が、すいません、と言って、混雑した車内を掻き分ける。すいません降ります、と男はもう一度大きな声を出した。車内の人ごみは声のほうを振り向き、精一杯道を作ろうとしたが、電車に乗ろうとする人ごみと混ざり合い、うまくいかない。男は無理やり人ごみからホームへ出た。電車の扉が閉まる。窓からは駅のホームを歩く人々の群れが見える。その中に、さっき降りた男はいた。階段を降りようとしていた。
 
 2、3年前にずっと聞いていた曲は、iphoneの中で飽和状態だった。イヤフォンから聞こえてくる歌はうるさいだけのように思えた。本を閉じ、目を瞑り、つり革に体重をかける。かばんの奥にしまいこんだイヤフォンを取り出し、iphoneにつなぐ。聞き覚えのある声が聞こえる。ごきげんよう、と歌が言っている。君には歌が必要だろう?と勝ち誇った声だ。そうさ、必要に決まっているじゃないか。でも、あまりに消費が激しすぎるのだ。昨日見たはずの看板は取り外され、赤から黄色に塗り替えられている。昨日のキャッチコピーが、今が攻め時だ、だったのに、今日は、守りに徹しろ、になっている。目の前の女性は眠りの中で、それらの変化を無視する術を手に入れたのだろう。だが、ずっと立ちっぱなし。つり革にすらつかめない人だっている。だから、音楽で守ってやる。さあ、イヤフォンを耳に当てろ。肌の表面一枚に強固な壁を作るのだ。
 コンコン、扉をたたいているのは誰だい?大丈夫、大丈夫と繰り返してる。本当は大丈夫じゃなかった?耳にはめ込んだ音楽の壁が厚すぎる。コンコンとたたく誰かの手が誰の手だか分からない。助けを呼ぶ声を無視して、渋谷駅に着く。車内のドアが開く。人の流れが一気にホームへ出る。すぐさましゃがみ込む女性がいた。すぐ後ろにいた女性だった。彼女は、大丈夫、大丈夫、と繰り返している。駅員が駆け寄り、腕をつかんでベンチへ運んだ。ホームを歩く人々は、歩きながら、その光景を眺めた。
 イヤフォンを耳から外す。

 出張先で大学時代によく聞いていた曲を聴いていた。あのころからずいぶん変わった。よいことも、悪いことも含めて。勝ち誇らないで耳に届けてくれ、やあ、久しぶりだね、と。音楽は武器じゃない。鎧でもない。恥ずかしそうに、君を守りたかっただけさ、と音楽は言う。誰だってそうさ、友人は助けたいもの。


散文(批評随筆小説等) 君の手のひらに触れようとしても、怒らないで欲しい Copyright ブライアン 2011-11-04 22:41:15
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