聖域
草野春心



  君からの
  たっての願いだった
  僕は右手で黒ボールペンを握り
  左手で君の口を開き
  頬の内側の
  赤く柔らかな肉の上に
  文字を刻んでゆく
  インクがつくはずもないので
  傷をつけるようにして
  刻んでゆく



  いつかの秋の
  昼下がりの
  どこか密閉された場所での話だ
  ながい髪を後ろに束ねた
  君がパイプ椅子に座り
  僕がその前に屈みこんで
  作業をおこなっている
  初めはほんのジョークだったのに
  奇妙な思考回路と
  奇妙な会話の応酬の末
  君はそれを
  真剣に望むようになった



  作業の間君は
  笑みさえ浮かべている
  息苦しさと痛みで
  目には涙が溜まっているのに
  でも僕は
  笑うことができない
  馬鹿げているとは思えない
  君の口の中に
  一つずつ文字を刻んでゆくたび
  その作業は何か
  神聖で
  名誉あるものに思えてくる
  僕の額にうっすらと汗がにじむ
  両手についた血液や涎を
  時々拭きたくなるのだけれど
  この作業は
  けして中断してはいけない
  そんな気がする
  君の瞳は
  優しげに微笑んでいる



  君の聖域の上に
  僕が何を書いているのか
  君は知ることはできない
  僕が
  何処に
  何を
  この手で刻印したのか
  たとえ君が鏡の前に立ち
  口を開け、そっと覗き込んだとしても
  君は見ることができない



  それはまた、
  もう一つの聖域の話
  君の瞳は優しげに微笑んでいる
  君の髪は後ろで束ねられている
  君の頬の内側が血に濡れてゆく
  僕の右手は
  ボールペンを手にして
  震えている
  もっと、
  ずっと、
  奥のほうまで
  そう
  願って





自由詩 聖域 Copyright 草野春心 2011-11-02 18:02:38
notebook Home 戻る