麻雀
M&M
ゲームといえば子供のころは将棋だった。学校の昼休みに教室で友達とやっていた。
それから随分と経ってインベダーゲームが始まった。喫茶店の椅子に座って、名古屋撃ちだぜとか言ってキュンキュンキュンと音をたてながら撃っていた。
その後テレビゲーム普及の火付け役となったスーパーマリオ。ゲーム体験はスーパーマリオで終わっているが、将棋とインベダーゲームの間にもうひとつあった。麻雀。
寮の友達に誘われたのだった。雀荘の卓にすわって始まった。なにしろ初心者の私はまず場のスピードについていけなかった。友達は牌を見やすく並べかえる連中が多いなか、つもった牌を並べかえず右端に置いてさっと捨牌をきる。そして他から当たり牌がでるや「ロン」と掛け声をあげると牌をたおし、そこではじめて並べ替えて役をつくってみせる。その鮮やかさはほんとにかっこいいなと思ったものだ。自分はといえば、そんな彼にあこがれて本など買って勉強してみたが、上達せずみんなのカモにされていて自然とやめてしまった。
今でもまったく麻雀はやらないが、最近ふと麻雀は人生というものに近いなと思うようになった。
卓を囲んだ4人がまず交互に山から牌を取って来て13枚を自分のものとして並べる。この時、自分にどんな牌が来るかそれは運まかせだ。最初のスタートが運まかせというのは人生と同じではないか。どの時代のどんな環境に生まれるかは人生も運まかせだ。配牌が終わると、山から牌を1枚取ってきて、手持ちの牌を1枚捨てる。それを4人が交互に繰り返しながら、上がりをめざす。非常に単調な動作だ。つもって来て捨てるの繰り返しである。もちろんその単調さの裏には他の3人がどんな戦略で上がりをねらい何を待っているのか、山からつもる時何が来るのかなど様々なことを考えている。一言付け加えると麻雀のゲームスピードはかなり速い、それは兎も角、受け身からスタートし、単調な繰り返しを経て上がりを目指すというところは実人生に近いのではないか。
若いころは9回裏2死満塁で控えのバッターが代打に指名され、逆転満塁ホームランを打つという劇的状況を思い描いていた。ここより他の地にあこがれていたともいえるだろう。しかし実際の人生は日常的繰り返しの中でドラマが進行する。そう思いつつ麻雀というゲームをみると人生に近く、そしてつもって捨てるという単調な繰り返しの中に大切なものがあるように思えてくるのだ。