4月20日
はだいろ

昨日は、朝、銀座で、
「ベニスに死す」を見た。
むかし、見たときは、よくわからなかったけれど、
(そりゃ20才くらいのときだから、当たり前だ)
まだまだ、十分にわかるには、
あと最低20年は足りない気がするけれど、
でも、少なくとも、20年前よりは、遥かに深く感動した。

思ったことを忘れないように書いておくと、
どうしても、
ぼくは、映画を見に行くと、本編の始まる前の予告編が長過ぎて、
どんどん腹が立ってきてしまう。
いくらなんでも、20分は、あんまりだと思う。
ひとつには、ぼくは、トイレが近いので、
例えば「ベニスに死す」は2時間以上あるし、
最初の20分は無駄に思えてしょうがない。
予告編の必要性も、わからないではないから、
例えば、ある時間帯にまとめて無料で開放するとか、
シネコン形式の映画館であれば、
あるひとつのスクリーンでは一日中、
自由に入れる形で、予告編だけ流したらどうなのか。
ぼくは、本編を、楽しみに行くのだから、
いつも、いきなり、始まってほしいと、
本当にそう思う。

もうひとつ、忘れないように書いておくと、
映画は、このところ、
デジタル化が進んでいて、その流れを止めることは、
もちろんもうできないのだろうけれど、
やはり、フィルムの美しさには、
絶対に替えられないというのは厳然たる事実であるということ。
例えば、
ついに、CDの音質が、アナログを超えることができないということは、
完全に証明されていて、
(これは数値ではなく、事実として。)
最高のデジタル音質とは、アナログにどれだけ近づけるかという、
近似値でしかない。
だからと言って、デジタルに意味がないわけではないので、
新しい技術を否定する気はないけれど、
フィルム上映に特化した映画館というものは、絶対必要であって、
それこそ、国は、
こうゆうことに、十分すぎるほどのお金を使うべきなのだ。
例えば福島県を、
21世紀のシネチッタとして、復興させるというのは、どうだろうか。


それにしても、
ニュープリントで見た、
「ベニスに死す」のビヨン・アンデルセンの美しさは、
筆舌に尽くせない異常さで、
ぼくは最初に見たときから、
たいして同性愛的な側面には意識が向かなかったけれど、
そうゆう俗な次元を超えて、
理屈なんかなにも寄せ付けない美しさに目を奪われてしまう。


そして、
今という時代、ネット時代の恐ろしさを思い知ったのは、
事実上、この1本で映画界から永遠に姿を消したビヨン・アンデルセンが、
いったい、その後、
どうゆう人生を送ったのだろう・・・
そして、今は・・・
という興味本位に、あっけなく答えが出てしまうというところにある。
もし、
そういう興味を持って、検索をしようとしているひとがいたら、
ぼくは、絶対、やめておけ、と言っておきたい。
ビヨン・アンデルセンは、「ベニスに死す」の中のタジオ、
永遠のタジオ、それでいいのである。
人は老いる。
残酷なことに、
まるで、映画のなかのダークボガードの逆説のように。


それでも砂時計を裏返すように、
生まれてくる命。
時間は永遠で、美は一瞬。
それとも美は永遠で、時間は一瞬なのだろうか。
ぼくの、
はじめてのこどもの、
予定日は、4月20日だそうだ。









自由詩 4月20日 Copyright はだいろ 2011-10-16 19:29:20
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