リュウグウノツカイ
済谷川蛍
無国籍風な外観の遊園地。
尖塔から垂れ下がった鶯色のジェットコースターのレールがコロシアム型の建物からはみ出す様に大きくカーブを描いている。
入り口はエスカレーターになっていた。この地域は治安が悪いため両脇に警備員が立っている。左側の警備員はサナダムシ、右側はテズルモズルのようなグロテスクな姿態である。遊園地の壁沿いにはなぜかガンガゼが群れており、西日を受けて毒々しく照り輝いている。壁にはフジツボや気味の悪い海藻などが張り付いていていかにも磯臭そうだった。エスカレーターに乗ると警備員の触手が顔にまとわりついた。故意ではないのだろう。細い触手が千切れてまだ右肩のあたりでもぞもぞうごめいている。長いエスカレーターに運ばれていく。その外観から、どのような夢の世界が広がっているのだろうと不安と期待を膨らませたが、建物の内部は一面工事現場だった。唯一施設らしい施設として、広場の真ん中に教会が聳え立っている。よく見ると、むき出しの地面にはところどころに人骨が白く覗いている。呆気にとられながら振り返ると、2人の守衛がエスカレーターを上がってくる。私は何とか逃げ道を探して教会へ走ったが、教会は近づくにつれて立体感を無くしていき、辿り着くと3メートルもない一枚の絵に変わった。振り返るとすぐそばまで化け物が迫っている。出入り口のアーチにかかった「ここは夢の国」の看板。私はこれが夢であることを願った。
畳の上で眠っていた。窓を見ると細かな擦り傷がたくさん入ったような小雨が降っており、巨大な橋のかかった海峡を貨物船がゆっくりと通過している。延々と雨が吸い込まれ融けていく底知れない鉛色の海は私を不安にさせた。悪夢を見たのはこの海のせいだと思った。新聞をめくる音が寝起きの頭に新鮮味をもって響いた。右手首に数珠をはめた丸刈りの中年男性があぐらをかいて、畳の上に広げた新聞を読んでいる。海峡沿いに建てられたホテルは、外の世界の憂鬱さと対照的に濁りのない静謐な空間に守られていた。
子供の頃、親の運転する車の後部座席の窓から、数秒間だけこの場末のホテルを見ることが出来た。そろそろだ、と思って身を乗り出して窓に張り付き目を見張ると、はたして竜宮城のような黄緑色の奇妙な建物が現れ、そして一瞬で遠ざかるのだった。このホテルは幼い頃の私に、この世のものではないような、一生立ちいることが出来ないような、おとぎ話のような世界を空想させた。私は片道1時間かけて服の買い物をし、無理をして映画を観てしまったせいで帰りが遅くなり、眠気と一時の気の迷いに誘われてホテルの駐車場へハンドルを回したのだった。
畳の敷かれた休憩所には本棚が置いてあり、それはただ気休めのために置いただけという風ではない内容量だった。地元の作家の中原中也や金子みすゞ、種田山頭火のコーナーが特別に設けられていた。地元の作家ではないのに寺山修司の本も混じっていた。指を伸ばして本を取り、ペラペラとめくると裏表紙に「寄贈」の判が押されていた。やや怪訝に思ったものの、私は寺山修司の『汽笛』という掌編が好きだったので目次を調べたが、残念ながらそのハードボイルド体の最高峰ともいえる文章は収められていなかった。本を元に戻し、魅惑するような背表紙を読んでいった。花村萬月「ゲルマニウムの夜」、藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」、玄侑宗久「中陰の花」、長嶋有「猛スピードで母は」、おや、と思ったが、すぐにその類推は確信に変わった。綿矢りさ「蹴りたい背中」、モブ・ノリオ「介護入門」、阿部和重「グランド・フィナーレ」…。一時的に私の意識がもう一人の私の分身を作り出し「これらの作品に共通することは何でしょう?」と問題を出した。私が得意げに「芥川賞受賞作」と答えると、分身は役目を終えて消えた。ここのオーナーは小説好きなのだろう。私はどの本にも手をつけず自分の鞄の中から永山則夫の『捨て子ごっこ』を取りだしてしおりの挟まれたページを開いた。もう終盤だったので読み終えてしまいたかったのだ。
ほどなく読み終わったあと問題が生じた。私の腹の中には本屋などで店員に自分は万引き犯だと思われているんじゃないかという疑心暗鬼を起こさせる厄介な虫が巣食っていた。それに似たようなことがここで起こった。つまり、ここで本を読み終えて鞄に入れると、それを傍から見た人間には私がホテルの本をネコババしているように見えるのではないかという不安が発生したのだ。しばらく私は身動きせず、まばたきも止まった。突然、喉の奥のいがらっぽさをやけくそに吐き出すような大きな咳が轟いてそちらを向くと、数珠を巻いた男性が新聞を畳んでこちらへ歩いてきた。私は視線を外して男性が立ち去るのを待った。しかし男性は新聞を戻した後、何をしているのか一向に私のそばから立ち去ろうとしなかった。私は男性の両足の横で本を吟味しているふりをし続けた。痰をうがいの要領で取り出すような不愉快な音が頭上でして、やっとその煩わしい足がどいた。ほっとしたのもつかの間、がやがやと風呂から上がったらしい数人の男性が畳の上にあがって粗野な口調で談笑を始めた。どうやら顔馴染みのトラックの運転手らしい。本を鞄へ入れようかと迷っていると石鹸の匂いを漂わせた中年女性たちがやってきて金子みすゞの詩集を手に取りどうたらこうたらと立ち話を始めた。私は今すぐこの場にいる人間を爆弾で木っ端微塵に吹き飛ばしたい気持ちだった。らちがあかないので自分の本を棚に押し込み、あとで回収することにして鞄を持ってその場をあとにした。しばらくゲームセンターで遊んだ。
携帯を開いて時間を確認すると15時を過ぎた頃だった。休憩所に本を回収しに行く途中、腰まで髪を伸ばした小学4〜5年生くらいの女の子が、男湯ののれんをくぐっていくのが見えた。私は風呂の入り口を通り過ぎ、近くにあったトイレで用を足した。トイレを出ると急いで廊下を戻り、浴場ののれんをくぐった。ちょうどガラス扉が閉まり、擦りガラスのせいで少女の裸体はぼやけていたが、エロティックな黒髪に胸が高鳴った。衣服を脱いでいき、ロッカーに詰め込んだ。阿部和重の「グランド・フィナーレ」はロリコンの話だったな、全然覚えてないけど、と上気した頭の中でどうでもいいことを口走った。扉を開けると温かい湯気に包まれた。初めて来た客がするような仕草で浴場を眺め回し少女の姿を探した。見当たらなかったので、とりあえず一番近くの湯船に浸かって少女が目の前を歩くのを待った。しかしなかなか現れず、子供が好みそうな露天風呂へと向かった。湯気で曇った扉を期待しながら開けると老人と中年男性が浸かっているだけで、そこにはまったく用はなかった。いかにも冷気と風が虚弱体質の自分には寒すぎるといった身ぶりで扉を閉めて再び探索すると、あの長い髪の毛と細い腰、小さくて綺麗な尻が目に飛び込んだ。私は少女を追ってサウナ室のドアを開けた。階段状の段差には待ち構えたかのように数珠オヤジが座っており、私を見て眉をひそめた(ここはなんて狭い世界なんだ!)。少女はそのまま子供らしい気まぐれや自由さで反対側の出口から出て行ってしまった。私は数珠オヤジに少女を追いかけていることを悟られないようにおどおどと段差に座り、興味のない野球中継を見た。私はこうして時間を稼いでいる間にも少女が上がってしまわないか心配だった。5分くらい過ぎた頃、外から「パパー、もう上がるんー?」という声が響き「私も上がるー」という言葉を聞いたとき、私は決然と立ち上がりサウナを飛び出して少女を追って浴場を出た。少女が身体を曲げて髪を床に垂らし、タオルで身体を拭いているのを見たとき、私はまさしく竜宮城の宝石を探り当てた。身体を洗わずに浴場を出たことなど、どうでもよかった。身体を伸ばした少女の乙姫のような姿を見たとき、このホテルに寄り道をして本当に良かったと思った。少女が服を着て長い髪をドライヤーで乾かしているのを横目で見ながら浴場を出た。何台も並んだマッサージチェアの1つに腰かけ、コインを投入した。
裸の美少女を追いかけて、私はホテルをさまよっていた。なかなか少女は見つからなかった。階段を駆け上がっている途中に自分が裸であることに気がつき、衆目を避けてトイレの個室へ逃げ込もうとした。ドアを開けると漆黒の空と鈍色の海峡が広がっており、何の疑問もなくその風景を見つめた。小さな星が次々生まれ、夜空に幾何学的な模様を描き、瞬きながら海の底へ儚げに沈んでいく。それが断続的に、あるいは連続的に、ときには連鎖的に繰り返される。
「お客さん」
身体を無造作に揺すられて目を覚ました。
「ここで眠られると困ります」
従業員らしい男性が私の顔を覗いていた。男性の顔は少しも笑ってなく、迷惑な客として扱われたことで胸糞悪くなり、このホテルのことが嫌になった。近くにいた中年女性も無遠慮に冷たい表情で私の顔を見ており、田舎臭さに辟易した。このホテルの人間で唯一素敵だった少女の姿を求めて、人が一番多く集まる宴会場へ向かった。子供も少なからずいたが、あの少女の姿はなかった。会場の前にはいかにも場末のホテルらしくステージがあり、客がカラオケを披露していた。私は少女を追いかけ回すのは止めにして、メニューを見てノンアルコールビールとつまみを頼んだ。会場を見渡すと、みな不景気とは思えないような明るい表情で、どこか懐かしく、子供の頃見ていた風景が蘇り、まるでこのホテルだけ昭和の空間に隔離されているような錯覚を覚えた。司会の男が客の名前と曲名を読み上げると、ヨッ!と声があがった。会場の盛り上がり方からしてこの地域の有名人らしいドレスを着た中年の女性が少し恥ずかしげに礼をしてステージに上がった。覚えのあるイントロがかかると女性の顔が女優のように変わった。一時期火サスのテーマ曲だった高橋真梨子の「ごめんね」だった。女性はアマチュアでもかなり歌唱力が高い部類に入るのだろう。ビブラートや抑制の利いた豊かな声量といった技術面だけではなく、彼女の歌声は人の心に染みわたるものだった。私を含む会場の客を心酔させた。近くに座っていた女性たちが思わず「上手いね」と驚きと感動に満ちた様子でささやきあった。歌い終わると会場で大きな拍手と掛け声があがり、私もガラスコップから手を離して彼女を礼賛した。どうやらアンコールのようだったが、私は立ちあがり、ホテルを出ることにした。
雨は止んでいたが、夜の海峡は憂愁に満ちていた。街道を水しぶきをあげて数秒ごとに走り去っていく車の1台1台が、旅愁を振り撒きながら消えていく意思を持った儚い星々に見えた。駐車場で車のドアを開けようとしたとき、あっと声を出して本を忘れたことに気がついた。ホテルの本棚に自分の本を置いた説明をするのはめんどうだと思い、本を取り戻すことを諦めた。もしかすると、いつかオーナーや従業員が本の存在に気がつき、うら表紙に寄贈の判が押されるかもしれない。別にそれでも構わなかった。自分の車が家路を急ぐ星の列に連なったとき、竜宮城が過去の時間の中へ遠ざかっていくのを感じた。