を
salco

 尤も親の子ですからね、級が上るにつれ出来の方は下って参りました。
 字も、意味になっちまえば色で話しかけて来ることもなくなって、通信
簿にはいつやらアヒルがちらほらと。音痴ですし、絵ごころもサッパリで。
 もっぱら駆けっくら鉄棒で、体育の成績は一貫してようござンしたな! 
逆上がりどころかあなた、六年生の時には車輪の記録を作ったもンでさ。
ブランコは上に鎖巻きつけちまって、まあ怒られたの何の。神保町二小の
猿なんて呼ばれましたが、おかげ様で中学に入ると、おつむ足踏みでも背
はそろそろ追いつき出しまして。八百屋やってる親父に拳ひとつ迫った頃
にはあなた、外で油売る暇あったらちったあ店手伝えとしか言われなくな
りましたよ。


 「お前どうするンだよ一体。ええ?」
 夏休みの一夕、腹もくちくなって寝転がったあたしに、荒々しく卓袱台
をさらいながらお袋が言いました。
 「何が」
 「高校だよ高校」
 「行くかよ」
 慌てて言い添えました。
 「働く」

 その節あたしゃ力道山に心酔しておりましたからね、心ひそかにそっち
へ進もうかと。いえね、リキマンションてえ物件を赤坂にお持ちで、そこ
にお住まいだったンです。喧嘩に明け暮れて御殿が建つなんざ、課外活動
好きにはうってつけの、こんな旨い口があるのか、と。
 千代田・中央・港はあなた、どぶ板接した御近所みたいなもンで、銀
座、丸の内以外は目の玉飛び出るような地価じゃありませんでしたよ、当
時は。現にあたしらみたいな者が住んでるンですから。尤もうちは爺さん
の代からの借地でしたが。

 「馬鹿言うンじゃないよ。高校ぐらい出とかないと、箸にも棒にもかか
 りゃしないよ男は」
 「手伝うさ」
 「嘘お言いよ遊んでばっかり」
 「いいだろうよ、休み中ぐらいよ」
 「休み中に手伝わないでいつ手伝うって言うンだよ。漫画本ばっかり読
 んでないで、こら、ちっとは勉強」
 慣れたもンです。ひょいと拳骨を避けて、あたしは人参さながら座敷を
ゴロゴロ、寝しなの劣情で鍛える筋力だけで立ち上がります。
 「母ちゃんよ。そういうのおヒスてえンだぜ、最近はよ。ひひひ!」


 ああもう、お前みたいな怠けもん金輪際うちに置かないからね。どこへ
なり行っちまいな! 
 そんな母ごころを背中に浴びて土間へ下りますてえと、白熱も侘しい裸
電球の下で親父が黙然と片付けを始めております。お袋と違い無口なタチ
でしてね。あたしも黙然と手伝います。分けも隔ても妹ひとり、継ぎ手は
あたしっきゃおりません。
 まあ考えてみますれば、いくら憧れたところで、何年鍛錬すりゃこのひ
ょろひょろした体にあれだけの筋肉が付くのか、雲をつかむ心持もしない
ではない。ただ、今ンところはそれにもこれにも直面したくないわけでし
て。だってあなた、生まれてまだ十四年ばかしですもの。早生まれですし。

 横目で見やれば、蚊取りの煙が漂う中を俯いた親父の顔は、つばの下でお
天道さんより歳月に焼けているようで、目ばかり鈍く光っている。それ見
ると胃袋に金棒でも突っ込まれたみたいに気が塞ぐ。おまけに蚊はあたし
の黄色い体ばかし狙って来るンです。親父の皮はこいつらにとってさえ枯
れ果てて見えるンだろうな、と。
 いえ、その晩方に親父の顔が黒ずんで見えたのは、労苦のせいだけでは
ありませんでした。検査入院したのが十月。ガンと言や、当時は切るしき
ゃありませんでしたからね。胃袋とっぱらった親父は痩せるだけ痩せて、
ダンピングてえんですか。あれに耐えるだけ耐えて、翌年の師走には、え
え、文字通り枯れて。 肝臓だの胆嚢だのにソックリ移転しちゃっちゃあ
ね。あ、転移ね、転移。


                              つづく


散文(批評随筆小説等)  を Copyright salco 2011-10-01 00:03:31
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