指の味がしそうな塩水
ズー



指の味がしそうな塩水というはなしを書きはじめると、たばこ屋のシマさんが居酒屋おかるの前で足をとめる。月面にでもロシアにでも辿り着けそうな路地を、がに股で歩いているような男が、でてきて、着ているものは古本の表紙を張り合わせたように臭かった、ってつながる。
俺なんでもいいからねーと、シマさんにおかるの引き戸をあけさせて、うまいもまずいもかんけーねー、ちゃんぽんしちゃうぞって、叫ばせるけど、焼き茄子にすりおろした生姜をのせている、おかるのおばちゃんに聞こえないふりをさせて、シマさんの喉は、のん兵衛の戯言で焼けていく。
奥さんも、こどもたちも、今頃、あの男と、幸せな、そこまで書くと、シマさんはつかみかかってきて、べそをかき、コップを空にするから、
何年もべとべとしているカウンターの隅で先客の小男が茄子にかぶりついたのを、反転させて、シマさんに与えると、頬張って、コップを空にする。
のん兵衛のはなしなんか、もう止そうと考えはじめた、ぼくの肩に腕をまわし、いっしょに海でもみにいこーよーと甘えてきて、空になったコップを手放さない。
膝のわるいおばちゃんに欠伸をさせてから、シマさんにお勘定をすまさせ、いまから海はきつい、海のはなしの映画でもみようよと、家まで引きずっていき、真っ暗にした部屋で、気休めだけどって、塩水を入れたコップに、ふたり指を浸け、黙りこくったまま我にかえっていく波音に耳を澄ましている。
いつの間にか無呼吸症候群のシマさんのおでこに、うずまきを、書き加えていると、新聞が配達される前には眠れって顔で、きょうは寝て曜日だな。おやすみ、のん兵衛くん。とこんなことをシマさんは俯せになりながら、云ったのだろうか。
映画のラストシーン、水平線に太陽が沈んでいき、女が走り去った砂浜の、波打際の足跡と、ラベルの擦り切れた酒瓶を、大波が、きれいさっぱり消していき、シマさんの背中に酸素ボンベを書き加えている、こどもたちも、走っていく。
6才になったばかりで砂浜を走り、大学生になった男の子が父親より早くトラックを一周できるようになると、砂浜の一角を陣取っているマネージャーは日焼け止めを手に持ったまま波の止まった風景画に恋をする。いびきのうるさいシマさんの鼻にもろこしを詰めて、指の味がしそうな塩水を一息にのむと、何もなかったように、太陽がのぼる。


自由詩 指の味がしそうな塩水 Copyright ズー 2011-09-27 23:38:05
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