月に
ねなぎ
あれは
あの頃の月だろうか
路線減少の煽りか
飛び乗ったのは
各駅停車で
遅くなってしまった事と
帰ってからの雑務処理が
シャツに張り付いて消えず
べっとりと重い
大学に落ちたばかりで
言い訳を抱えて
一人暮らしで借りた
一階の角部屋の六畳間
タバコを吸う事も出来ずに
ベランダで煙を吐き
項垂れている日々に
声をかけられた
ふと
どのくらいぶりだろうかと
考えながら
外の景色を眺めていた
戸袋に寄り掛かり
変わっているのか
解らない街並みを
窓越しに眺めていた
住んでたアパートを
通り過ぎる時に
思わず見上げた
隣に住んでいたのは
中国からの留学生らしく
中国のラジオの音楽が
響きわたって
他の住人と揉めている
怒鳴り声が
聞き取れずに
飛び交うのは何の言葉か
月を見ているだろうか
横の一軒家を借りている
お兄さんと
挨拶をするようになり
ビールを貰ったり
タバコを上げたりしてる内に
夜中も話しかけられるようになり
飲みに行くようになり
呑み潰されて
3日酔い
そう言えば
この路線に乗るのは
どのくらいぶりだろうかと
思い出そうとして
思い出せなかった
停車の度に吹き込んでくる
温い熱気に撫でられて
寄りかかった
戸袋にシャツが張り付く
あの頃の月は出ているだろうか
あの頃は月なんて見ていたか
アパートの入り口あたりに
屯する異国の人々に
クラクションの重なり
つんざめくような
電車の音
揺られながら
揺れているのは
自分だろうか
記憶だろうか
それとも
同じ位置を
平行に走っているように
見えている
夜になる度に
隣の家から聞こえる
何かが落ちる音
響く声は甲高く
窓ガラスが割れた
深夜に独り
窓を背中に
煙を吐いている
べっとりと重たく
内側の声にだけ
急かされるように
見ているだろうか
それとも
見ていただろうか
お姉さんとも話すように
なったのは
家に上げて貰えるように
なったからだった
散乱するレコード
適当に積まれた本
一人暮らし用の
冷蔵庫の扉から見える
痣の浮かんだ二の腕
僕が見上げていたのは
月だったのだろうか
泣き声が
混じっていたのは
聞きたく無い音
ベランダから
見上げた灯りは
揺れていた
あの頃の
月だったろうか
あの頃が
あの頃は
余裕も無く
過ぎていく日々に
バイトに没頭する事で
逃げていた
目の前から
目を逸らしたくて
いつも
ベランダで
タバコを吸っていて
そして流れていく
月日に
焦りが張り付いて
時々
帽子を被っていた
そんな二人と
話す事もあり
お姉さんが家に上がる時に
誘われるくらいには
話すようになっていた
電車の窓越しに
月が張り付いている
あの月が
僕らの見ていた
月だったのだろうか
謝れば
良かっただろうか
誰に
許して貰うのだろうか
僕は月なんて
見ていただろうか
そんな余裕が
有ったんだろうか
酔っているのは
自覚していても
既に目の前に
いつものように酔い潰れて
半分
眠った顔
月が見ていたのだろうか
彼女の料理を
食べさせて貰っていた時だった
豚キムチとか
つついていた時だったと思う
占いの本の話だったろう
本の話になり
突然
家に来ると言い出した彼女を
止める事が出来ずに
俺も行くとの声が
仰向けになった辺りの腕越しに
聞こえたけど
あんたは寝てなさいとか
言い争って
あの頃の月は
暗い中に浮かんで
僕は
あの頃の月を
見ていたろうか
見つめる視線に
合わせる事も出来なくて
俯いたままで
顔も上げられず
ビール缶の向こうが
煙ってボヤけて
あの頃の人々の
顔も浮かばずに
初めて人を上げた家で
僕は固まっていて
散らかった部屋が嫌で
電気はスタンドの電気で
その事を謝って
狭い事を謝って
腰掛ける場所は
ベットしか無くて
僕は床に座って
カーテンの向こう側に
見えていたのは
外灯だったろうか
照らされた本を読む
横顔を
確かに見ていたけど
こめかみの傷しか
覚えて無くて
窓を開けても
暑くて
それでも
甘い匂いがした気が
する
ねぇ彼女とか居るの
焦った僕は
汗を拭うのも忘れて
そういうの未だなんだ
咄嗟に
隣の二階を
見上げて
そして
間の抜けたように
話題を変えたくて
怒らせときゃ良いのよ
いつも何だから
勝手に怒らせときゃ
良いの
やたらと髪の毛が
指に絡んで
何を言ったろうか
何を喋ったろうか
そんな事さえ
思い出せなくて
僕が怒られちゃいますよ
彼女の声が
息が近くて
手を伸ばせもせずに
触れようも無いけど
側にある熱気に
浮かされて
あいつが怒ってたら
泊めてくれない
喉が張り付いて
彼女の
顔色を変えさせたのは
言い淀んだ
僕だったと
ごめんなさい
こっちこそ
ごめんね
急に戻ると言い出した
彼女を
ドアまで
送って行って
ベランダから
見送った
ねぇ開けてよ
手を伸ばせば
届いたろうか
誰が月に
行ったのだろうか
それは本当に
行ったのだろうか
アスファルトに散乱した
バッグの中身と
サンダル
音は響いて
乾いたような
音が響いて
泣いて崩れた姿を
呆然と見ていた
目も合わさずに
全ては無言のまま
投げ捨てられたバッグから
携帯やコンパクトが
アスファルトに滑って
音を立て
ドアは乱雑に閉じられて
頬を抑えたまま
動かない肩が
道路に向けられて
顔を俯かせて
音を失くして
大丈夫ですか
言葉を失くして
帰る
それでも
拾って
掻き集めて
送って行きましょうかなんて
間抜けた事を言う僕に
無言だったのは
優しさだったと
色さえ失くして
その傾いた背中を
覚束ない
足取りを
垂下がった
力ない肩を
反射で見上げた
二階の灯りを
そして
思わずに降りた
十年ぶりの
ホームで立ち尽くし
僕は
あの頃のまま
月を見上げている