RE 日本人にロックはできるか サセクション
只野亜峰

 ある設問を提起され、それに対して否定的な意見というものを見ると反論したくなってしまうのが人の性というもので、もちろん考え方や思想哲学やそれに準じた答えや解というものは人それぞれではあるのだけれども、そういった事柄を悶々と考え込んでいるよりはいっそ文字にしてしまったほうが物書きの端くれとしては幾分有意義であるような気がしてキーボードを叩いていたりするわけで、『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT』や『BLANKEY JET CITY』『NUMBER GIRL』『忌野清志郎』等多種多様なアーティストの存在する日本のロックの愛好者を自負する私にとって『日本人にロックができるか』という設問はそういった意味で実に面白いものだったりしました。しかしながらこの問いに対して「日本のロックだって素晴らしいんだよ」等という見当違いな言葉で煙に巻くことは好ましくないように思えたものですから、この設問の意義を思い浮かべながら答えていくのもまた一興であるかなと思った次第であります。

 さて、我々の国というものは特に戦後において欧米諸国に強い劣等感を抱いてきたのではないかと考えられます。『強大な欧米諸国に対して勝てるはずの無い戦争を狂信的な天皇崇拝によって泥沼化させていった愚かな敗戦国』というのが戦後に生まれた我々の恐らくは共通の認識ではないかと思います。そう考えれば確かにそれはそうなのですが、あの時代にはあの時代の事情というものがあったでしょうし、日本という政治組織が戦争というカードを選んでしまった事を頭ごなしに否定してしまうのは少々卑屈に過ぎるような気もしてきます。それに起因しているかどうかはわかりませんが、番田さんの批評には漠然とした欧米諸国に対する強い劣等感を感じました。

 『我々から見た欧米諸国には印象に残るクリエイターが多いが、アジアや中東には少ない』

 ですから、この一文において番田さんが言いたかったのは、決して『欧米諸国のクリエイターが圧倒的に優れていてアジア圏にはクリエイティブな人物がいない』という事ではないように思えたのです。欧米諸国に対する劣等感を前提に考えるならば、これはクリエイティブな人物の存在の是非を問う一文であるというよりは、クリエイティブな人物の存在に対する興味の是非を問うた一文であると言えるでしょう。
 つまり、『我々から見て文化的に優位である(と考えられる)欧米諸国に対しては強い劣等感と共に強い興味を持ち、文化的に下位である(或いは同位であると考えられる)アジア・中東に対しては優越感があり無関心である。同じように欧米諸国から見た我々の文化というものは彼らにとって興味の範疇に納まらないものであるだろう』という主張へ発展するわけです。そして、その主張はある意味で正しいのではないかとも考える事ができるわけです。その事を踏まえた上で最初の設問に戻るとしましょう。

 確かに日本人が欧米諸国のアーティストに憧れるようには欧米諸国は日本人のアーティストを見ないのでは無いかと思われます。日本において忌野清志郎がいかに偉大なアーティストであったとしてもエルヴィス・プレスリーが世界に与えたような影響は与え得ないでしょうし、オアシスの毒舌兄弟が日本人のアーティストを扱き下ろすような事も恐らくは起こり得ないのではないかと思います。仮にそう云った世界的なステージに立てる日本人がいると仮定するならば、それこそYMOぐらいしか思いつかないのが現状では無いでしょうか。だからそういった意味で番田さんの主張は正しいものであると言えるでしょう。


 さて、それを踏まえた上で今回の命題に入っていくとしましょう。番田さんの批評に『そもそも、この国には宗教も哲学といったものなど存在しなかった』という一文があったのが、自分としては残念に思ったのですが、確かにそう思われても仕方の無い側面があるのも事実だったりします。番田さんの主張としては恐らく、それらの思想・宗教・文化・哲学といった素養の全てが欧米から敗戦国民である我々に押し付けられたものであるという事を言いたかったのだと思います。恐らく、『ロック』という題材は『欧米から押し付けられた思想・宗教・文化・哲学』を象徴するものとして選んだのでは無いでしょうか。さて、しかしながら自分はこの事柄に対して異なる見解を持ち合わせていたりします。

 日本人はよく無宗教のように誤解されますが、実はそんな事はありません。所属で言うのであれば恐らく多くの日本人が何某の神社の氏子であり、何某の寺の檀家であるでしょう。もちろんそうでない方もいらっしゃるでしょうが、実を云えばこの所属すら対した問題にはなりません。
 そもそも日本人は神道という宗教を持っていました。大神神社のような山岳信仰や自然崇拝が恐らく原初の姿であるでしょう。そこに農耕文化が入り天照や月読のような暦を象徴する神が生まれやがて体系化されていきましたし、途中に仏教の伝来もありました。しかしながらその根底にあったものは自然や物事の森羅万象に宿る万物に対する信仰、即ち八百万の神に対する信仰であったと言えるでしょう。日本人の『物や道具を大事に扱う文化』というのはおおよそこの信仰に帰すると言えるのではないでしょうか。
 仏教という教義と大きな衝突をする事も無く(いやまぁ、もちろん色々あったんでしょうけど)、今日まで異なる宗教が一国民の中で広く共存してきた理由に、この万物を受け入れるだけの包容力のある『八百万の神に対する信仰』というものがあったのではないかと思われます。つまり、融和性の高い日本の信仰の土壌が不遜にも一神教の神であるキリストも誰も彼をも八百万の神のうちの一神として受け入れてしまったのではないかと考えられるのです。思えば、盆や正月やクリスマスといった年末年始の宗教的なイベントを国民的に三回も取り入れる民族は恐らく日本人だけのような気がします。
 番田さんの主張の通り、真に日本人の文化がすべからく欧米諸国に侵されているのであれば、他にもハロウィンやカーニバルといった概念が取り入れられていてもおかしくないのですが、残念ながらハロウィンは日本では下火ですし、カーニバルという単語を宗教的な意義を持って扱っているケースもほとんど見られないのが実情です。ハロウィンは収穫祭ではありますが、元を正せばキリスト教ですらないケルト文化圏の風習ですし、日本人は歴史的に見て農耕民族ですからカーニバル(謝肉祭)という概念もあまり融和性が無い文化だったのではないでしょうか。そういった意味で日本の思想・信仰形態はかなりの割合で本来の宗教的な原型を留めつつ欧米諸国の文化を主体的に取り入れてきたと言えるでしょう。

 そして、それを踏まえた上で考えるのであれば我々の文化を欧米の興味の対象外であると考えるのは少々自虐に過ぎるのではないかとも思えるわけです。そもそも我々だって欧米の名だたるアーティストの全てを網羅しているとは言い難いのではないでしょうか。ビートルズやクイーンは知っていてもブラックアイドピーズやK.Tタンストールを知っている人間は恐らく少数であるでしょう。最近の有名どころで言うのであれば、レッドホットチリペッパーズやオアシスがそこに該当するかとは思いますが、それらのグループでさえ日本人の多くにとって尊敬やまないアーティストであるかどうかというのは疑わしいものがあります。もちろん洋楽の愛好者にとっては彼らは尊敬やまない素晴らしいアーティストではありますが、多くの日本人にとっては名前ぐらいは聞いた事がある程度の認識しかないでしょう。つまるところ我々にとっても彼らにとってもそれは同じ事であるわけです。その事に対して過度にナーバスになる事それ事態がナンセンスであると言えるでしょう。
 私の知る限りではありますが、日本の文化にたいするリスペクトを感じる作品というものも決して皆無ではありません。例えば坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』は欧米でリスペクトされアレンジングアルバムも出ていますしミュージッククリップも和風のテイストで作られていたりします、マドンナの『jump』のミュージッククリップの舞台も日本に設定されていて、僕はこの古き良き日本の文化と風俗のネオンのような雑多な現代日本の文化が織り交ぜられたこのミュージッククリップに非常に好感を抱いていたりするのですが、それは脱線に過ぎるというものですのでこのあたりにしておきましょう。ともあれ、少なくとも我々の持ちえるサムライニンジャハラキリフジヤマゲイシャスキヤキスシテンプラの文化は我々がアイリッシュのような音楽に持ちえるだけの敬意を持って迎えられていると考えても決して思い上がりでは無いのではないでしょうか。


 さて、いよいよ本題へと入りたいと思います。『日本人にロックはできるか』。この設問に対する解答はロックという言葉がロックンロールを指し示すものであるならば恐らくNOであるでしょう。ロックンロールの成立の仮定には実に複雑な経緯があります。ブルースはロックの母体であると言えるでしょうし、中間に介入したジャズやスウィングといった音楽文化の介入も考慮しなければなりません。なりより、ロックンロールが力を持ちえた背景には労働階級の持つ社会的な反骨心や社会的反発があった事もおざなりにはできないでしょう。そして、遠く離れた異郷の地である日本にそういった文化的な側面を受け入れろというのは土台からして無理な話であるわけです。そういった意味で日本人に欧米のロックンロールをしろというのは土台からして無茶な問いかけであるわけです。
 では、日本人の騙るロックンロールなぞというものは所詮文化的に優位である欧米諸国の猿真似であるかと言えば必ずしもそんなわけではなかったりします。実を言えば日本のロックというものはその成立からして欧米と多少の遅れはあるにせよ同様の経緯を辿り、そして独自の変化を遂げてきたものであると言えるわけです。時は1940年代に遡ります。この時代のヒット曲といえばブギの女王と謳われた笠置シヅ子の『東京ブギウギ』が思い浮かぶでしょう。美空ひばりを初めとして多くのアーティストにカヴァーされ続けるこの曲は多くの日本人にとって戦後の混沌とした中でも活力を失わない日本の姿を思い浮かべさせます。
 ブルースから始まり、ブギウギやジャズやスウィングといった音楽を経てやがれロックンロールへと結実していった本場のロックンロールの姿のように、戦後の混沌の中から立ち上がり、ブギウギやスウィングとの中から生まれでたロックンロールの姿は確かにこの日本の中に存在し得たのではないかと僕は思います。たとえそれが、エルヴィス・プレスリーやジョン・レノンやブライアン・ジョーンズが追い求め追及したロックンロールの姿とは違ったとしても、彼らのロックンロールとは決して交わらないとしても、この極東の地に芽吹き生まれたロックンロールは確かに存在し、微かに主張を続けながらも脈々と存在し続けるのではないかと思うわけです。ロックンロールとはすなわち血脈のようなものです。
 そういった血脈が後の時代に受け継がれていった『頭脳警察』や『ゆらゆら帝国』、そして『RCサセクション』といった今でも尊敬を集めるロックバンドへと結実していき、『THE BLUE HEARTS』や『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT』や『BLANKEY JET CITY』『NUMBER GIRL』へと受け継がれていく。そして、その血脈が次世代のバンドマンへと受け継がれていく。もちろん全部私の好みの範疇ですから、それ以外にも素晴らしいロックバンドは数多く存在するのでしょうけれども、それらの全てが日本のロックの姿であるといって良いでしょう。

 番田さんの批評において気にかかる最後の部分は『ロックというものは英語で歌われるのが自然である』という一節であります。そもそもロックの原型を求めるのであれば、黒人の音楽であるブルースやゴスペルといった音楽的概念であるわけですから、そもそも黒人以外にロックンロールを真に扱う事は不可能であったわけです。しかしながら、黒人的な素晴らしき音楽が白人の中に文化として流入し結実していった事は必ずしも批判されるべき事ではないでしょう。近年で言うのであれば、黒人以外は認められないとされていたR&Bの舞台においてエミネムが認められた事は記憶に新しいものであると思います。そのあたりも踏まえると、現代の音楽事情を取り巻く色々な垣根の正体というものが見えてくるのではないかと思ったりもします。
 すなわちそれは文化的な或いは人種的な垣根のもたらすイデオロギー的なそれであるわけです。ある意味でそれはロックンロールという文化が最も禁忌し憎んだ文化であったというのは皮肉な話であります。しかしながら現実問題としてそういった『国境』が出来てる以上我々になすべき事はただ一つであるでしょう。すなわちそれは良き音楽を聴く事であるわけです。良き音楽と出逢い、良き音楽に傾倒し、良き音楽を広める事であるわけです。
 残念ながら、現代のロックンロールという存在はそれらの暗雲を打ち破るだけの突き抜けたパワーを持ち合わせないのが現状であるのでしょう。60'年代の持ち合わせた『ナッシングトゥルーズ』の精神を現代の現役の飽食世代のバンドマンに持ち合わせろというのも酷な話ではあります。しかしながら日本のロックンロールを欧米式ロックンロールの亜流として途絶えさせてしまうにはあまりに惜しい存在であるのも事実です。我々にできる事と言えば唯々、亜流と罵られるロックンロールを見守りつつ、いつの日か亜流ではなく分家であるとその存在意義を認められるその日まで、淡々とその存在を認識し理解して見守り続けるだけしかないのかもしれません。

 そんなこんなで、まるでフジロックのような気まぐれな豪雨の降り注ぐ丑三つ時の田園風景より私只野亜峰がお届け致しました。なにぶん酔いどれ時の文章ですので御見苦しい随所に御座いますとは存じ上げますが、貴方の日常を彩る糧の一部分として存在しえたなら本望であります。それでは誠に持って手前勝手ではありますが、そろそろ寝ないと怒られるのでミッシェルガンエレファントの世界の終わりでも聞きながら就寝の徒に就きたいと存じ上げる次第であります。貴方のロッケンロールなエブリデイにハピネスイズボーリングでハッピーゴーラッキーな毎日が祝福するである事を祈って。


散文(批評随筆小説等) RE 日本人にロックはできるか サセクション Copyright 只野亜峰 2011-09-05 05:04:21
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