批評の宛先
佐々宝砂

(詩人ギルド・レビュウに投稿したものを、一部削除、若干訂正)

 私が、あるひとつの詩をとても好きになったとする。しかし私でないあるひとりの読者はその詩が好きでない。むしろ大嫌いだと言う。また、先の詩とは別なあるひとつの詩を読んだ私は、吐き気がするほどその詩が嫌いだと思う。しかし私でないあるひとりの読者はその詩が大好きで、「惚れちゃう」とまで言い手放しで礼讃する。なぜかと問うのはヤボかもしれない。「人の好みは説明できない」と諺を引用してあっさりすませてしまった方がよいのかもしれない。だが、私は、そこんとこをあえて説明してもらいたいのだし、自分でも説明したいのだ。しかしそれにしても私は、何のために自分の個人的な好みなんかを説明するのだろう? なぜそんな面倒くさいことをしたがるのだろう? 私は詩と同じくらいに批評が好きだ、他人の言葉で語ることが好きだ。しかし、どうしてそうなんだろう? 誰のためなのだろう?

 アホウな例だが、私はかつて、全文引用からなるラブレターを書いたことがある。古今東西の文学作品30作品ほどから自分に都合のよいとこだけ抜き出し、恣意的に並べて、私独自の言葉はひとつも書き加えることなく、ただ他人の言葉だけで愛を語ろうとしたのだ。このアホウなラブレターはちゃんと投函され相手のオトコのもとに届き、私はそのオトコと4年ばかり交際した。

 どうしてそんなラブレターを書こうと思ったのか、私ははっきり覚えている。その昔ポーラ文化研究所が「IS」という雑誌を出していて、私はこの雑誌が好きだった(まだ廃刊ではないらしい。私はこの雑誌が好きだったのでポーラ化粧品に入社し、文化研究とは無縁な現場で四苦八苦することになる。しかしそれはまた別な話)。80年代のこの雑誌は、いい意味でも悪い意味でもサブカルチャー的な雰囲気を色濃く持っており、荒俣宏の文章だの盆栽パフォーマンス(誰か覚えてる?)の写真だのが気分良く無節操に並んでいた。そのなかに、『ラヴズ・ボディ』抄訳の連載があった。『ラヴズ・ボディ』は、引用文献・参照文献だらけの断片的アフォリズムからなる、ノーマン・O・ブラウンの著作(のちにみすず書房から全訳刊行)。私は、難解な『ラヴズ・ボディ』の内容そのものではなく、『ラヴズ・ボディ』の手法、引用で世界を語ろうとするその態度に強い憧れをおぼえた。真似したいとおもった。それで足取りおぼつかないまま「他人の足で歩く」ことを試み、しかし、できあがったのは引用文からなるラブレター……

 マコトにアホな話で恥ずかしいが、たぶんこのあたりに真相が潜んでいる。んで、私は、ここで強調しておきたいのである。既存のものを解体して引用の織物をつくろうとする態度にあこがれて試みたこの「引用ラブレター」の宛先が、引用文献の作者ではなく、知的あこがれの当の対象であるノーマン・O・ブラウンでもなく、批評とも詩作品とも直接は関係ないごくフツーのそこらへんのオトコだったことを。


11/21追記。ISは、廃刊だか休刊だかになったらしいです。原口昇平氏が指摘してくれました。ありがとう。


散文(批評随筆小説等) 批評の宛先 Copyright 佐々宝砂 2004-11-17 17:02:27
notebook Home 戻る  過去 未来