板谷基雄のこと
板谷みきょう
こんな時間に一体誰なんだよ。と。
少々不機嫌になりながら
重い腰を上げて電話に向う
受話器の向こうから
「みきょーかい?
かぁさんだよ。
モト―が、いよいよだよ。
長くないんだよ。
お願いだから
会いに行っておくれよ。
頼むよ。」
唐突にそれだけいうと
黙ってしまった。
「判ったよ。」
そう返事するしかなかった。
ぶっきら棒に返事をするのは
親子だから許されている唯一だったり
実際の処
地方で開催されている年に一回の
野外ライブに出演すべく
出発する算段で居たから
どんなに早くとも
兄貴の元に面会に行けるのは
四日後…だった
四日後の午前中のナースステーション。
小栗旬並みの穏やかな声で
面会に来たことを告げ病室を尋ねると
看護師は、即座に病室を教えてくれようと
入院患者のネームプレートを貼り付けてある
壁を見に行った
その動向を見ていた若い相談員が
受付窓口から声を掛けて来た。
「面会は午後一時となっております。」
刹那、中村獅童が現れる
そんなことは、病院入り口や
エレベーターの壁、歩いてきた廊下の壁
テーブルの上のプレートなど
至る所に書いてあるじゃあないのか
病院には病院の都合があるのと同様に
面会するにもする側の都合があるんじゃ!
何処から来てると思ってんじゃコラッ。
地元じゃないんじゃ。ボケッ!
小栗旬に何とか戻り礼を告げて
病室へ向った。
扉を隔てた613号の個室の中から
ケダモノのような呻き唸り声が聞こえてくる。
病室に入ると寝台に寝ているのは
麻薬中毒患者のような
髪も斑に
浅黒く痩せこけたギョロ目の男だった。
食道を通過しないせいか
チリ紙で唾液を拭い取っては捨てている。
寝台の直ぐ横に置いてあるダンボール箱一杯に
捨てられているチリ紙は
溢れそうになっていた。
抗がん剤と併せて
持続点滴で
モルヒネ投与をしているらしいが
痛みが消えないようだった。
両の足先まで小刻みに震わせながら
もうろうとした意識の中で廃人のような男に
「お兄ちゃん。具合悪そうだな。」
そう声を掛けた。
一瞬、意識を清明になったように
『・・・おぉっ。みきょーか?
すまん。モルヒネも効かなくて
今日は・・・。』
聞き取り難い小さな声が出て
落ち着かずそわそわとして
視線は宙をまさぐるようだ。
「じゃあ。また改めて来るわ。」
面会時間ったって
1分も無く病室を出た。
お兄ちゃんは、小さい時から
品行方正で
縁の下の力持ちみたいに
陰で支えることばかりを続けてきたけど。
誰にも知られていないかも
知れないけど。
フォークシンガーのボクと違って
板谷基雄は、れっきとした声楽家なのだ。