水を飲む
yo-yo

毎日ぼくは、琵琶湖の水を飲んでいる。
といっても、湖水を掬って飲んでいるわけではない。
琵琶湖の水は、瀬田川から宇治川へ、そして淀川となって大阪湾に流れ込んでいる。その途中で取水され浄化されたものが、水道管を通ってわが家まで来る。それをぼくは蛇口から頂戴する。
ただの水道水を飲んでいるのだ。けれども時には、「ああ、琵琶湖の水を飲んでるんだなあ」と思うことがある。

この水がめは、とてつもなくでっかい。
まわりの山々の連なりを想像しながら、ときには青い山に分け入り、山頭火のように「へうへうとして水を」味わう。
そのとき水は、ただの水ではなくなる。

水によって生かされているのは、ひとも魚も変わらない。
琵琶湖に棲む百種もの魚や貝と、ぼくは水を分け合っている。魚たちが口に含み、吐き出した水を飲んでいる。水を飲むとき、水が体の中をくぐり、体が水の中をくぐって、ぼくも魚になる。

琵琶湖には、そこにしか居ない魚がいる。
3年ほど前、数千匹のイサザという魚が、死んで湖底に沈んでいた。死因は酸欠だった。
琵琶湖も、深呼吸をするという。
冬場の寒さで湖水が冷やされ、比重を増した水が湖底に向かって下降する。反対に深層部の水が上昇する。この循環が、湖水に酸素をゆきわたらせる。

湖も生きている、魚も生きている。湖がうまく呼吸できないと、魚も窒息してしまう。
ときには湖が、魚たちの涙のうみになる。そんな日の水は、まずい。







自由詩 水を飲む Copyright yo-yo 2011-07-14 06:31:49
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