景色のどこかで思うこと
番田 


あまり覚えていない友達のことなど、私はいつも忘れた。私は自由でいたかったし、時の流れをいつも感じていたかった。単純肉体労働など、嫌気が差してやる気などおこらなかった。それだけは私が私であることの選択の自由なのかもしれなかった。誰にもできないような、細かな計算式を頭の中にいつもめぐらしていたい。そしてまた、ぼんやりと時が流れていた。誰が何と言おうと、流れていないのは私の頭の中に膨らんだ妄想だけ。私はその中に広がっていく波紋を追いかけた。蛙や、魚の泳ぐ影を取り巻きながら外へ外へと広がっていく、見慣れた川の波紋の色たち。


絵画や音楽といったものがすでに過去のものとなった今の世の中でも、時折、私たちはその恩恵に預かりたくなるものである。今CDショップを訪れても、聞きたいと思える作品が少ないように思えるのは何故だろう。今は、混沌とした世の中だから、詩や芸術といったものが必要であるかも知れないと私は考えている。色々なものの価値観が、そこで流動的な動きを見せているが、過去にはアメリカによるカルチャーが世界を網羅してきた。ネットによる流通だけがそれをはばんでいるようには到底思えない。今、カッコイイのだと思えることはすでに古いことのように思えるのはとても不思議である。


雀もそうだしカラスやハトといったものも多かった昨日、私は河原に座り込みながら通り過ぎていく色々なものを見た。色々な種類の鳥たちの声が辺りに無数に散らばっていた。緑色の風景の中を手を引かれて歩いていく子供の姿を私は見た。釣りサオを振って、蛍光色のルアーを取水場に投げ込む少年の姿を見た。




自由詩 景色のどこかで思うこと Copyright 番田  2011-07-05 01:34:17
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