私たちを支配するもの
遠藤杏

村上春樹のスピーチを聞いて、何かしら心動かされるものがあった。震災から3ヶ月、少しだけ立ち止まって考える時間ができたように思う。あの日から私は何も変わっていない。しかし、大きく変わっている。原発の問題や、買い溜め問題、節電、現地の状況、チャリティーイベント、そのどれもが私には実感をもって感じることができないでいた。私はそのようなことを考えたり何かを言ったりする前に、そのような状況に無関心であったのかもしれない。もちろん被災地の映像を見たら涙が出るし、何か微力でも力になりたいと思う。しかしその前に自分の生活である。私には自分が住んでいる国が大変な危機に陥っているという実感よりも、自分が明日どうやって生きていくか、というもっとも根本的な問題の方が単純に大きかったように思う。そんな毎日の中で、しかし確実に変化していく何かを私は秘かに感じていた。
私は以前から少し疲れている部分があった。海外に数年住んでいたからか、日本の人達はみんなせこせこ急いでいるように見えて疲れたし、みんなが携帯をいじりすぎなのも疲れたし、テレビが面白すぎるのにも疲れていた。とにかくあっという間に時間が過ぎてしまう感覚で、それが怖かった。私の心は少しすさんでいた。人のことを極度に消極的に見たり被害妄想的な考えで相手を判断したりした。それはとても悲しかったし自分自身が嫌になった。
私たちを支配するいろいろなもの。お金や社会や政治や人間関係や、生活や、人間であるからこその負荷、自由であること、そのいろいろが根底から揺さぶられた日、それが私にとっての3.11である。皮肉なことにあの日から少し心が軽くなった。それは薄々気付いていた。私は携帯でなんでもできるこの国で、電気が足りなくてみんなで家の電気を消したりしながら暮らすなんて想像すらしたことがなかったし、コンビニに商品が何もないなんていう状況を考えもしなかった。そんなことが実際起こってしまって、私は根底から揺さぶられた気分だった。私たちが支配されていると思っていたことなんて、天災でこんなにもあっけなく崩れていってしまうものなんだ、ということが一番の私の実感である。きっと私の中であらゆる観念が新しく更新された。
それと同時になぜか罪悪感もあった。周りの人達が一生懸命デモに参加したり、お母さん達が必死に放射線から子供を守ろうとしているところで、何を呑気に心が軽くなったなどと思えるだろう。そして、私の知らないところで何万もの命が消えていって、それを悲しむ人が数え切れないくらい存在して、それは終わりがなく限りなく続いていく痛みだ。
しかし私はこのタイミングでこの文章を書き、少しだけ強がってみる。罪悪感などいらないはずだ。私は私であればそれでよくて、それがたとえ私個人のちっさい感情だったとしても、その感情は直接世界と繋がって、みんながみんなであればよい。ただそれだけを、祈り続けていくことが大事なことなのじゃないか、と。


外は薄暗くて夜明けが近づく。私は今日も支配され、更新され、繋がっていける。



散文(批評随筆小説等) 私たちを支配するもの Copyright 遠藤杏 2011-06-17 03:44:40
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