クロール
ホロウ・シカエルボク
高熱で溶けたアスファルトをのた打って泳ぐ一匹の亡霊
髪はなく眼球は薄く霞みおそらくはなにも見えてはいない
肉はなく皮は骨格に張り付き伸ばす腕に力はなく
声もなく心もなくだけどそこを泳ぐ理由だけは確かにあるみたいで
北の方に向かってひたすらクロールし続けている
車が道を跳ね上げ漆黒の轍が亡霊の進路を判りにくくして
やがてヘッドライトの中でそれは消えた
俺は首と腕に枷をされた罪人のように
窓枠に身体をもたせてそのさまをずっと見ていた
本当はおそらくアスファルトは溶けてはいないしあいつはそこを泳いでもいない
それはただそこに落とされた消化されなかった記憶なのだ
窓枠に身体をもたせてそのさまをずっと見ていた
あいつは北に向かって泳いでいたが
なぜそうしてるのかなんてもう覚えてはいないのだろう
いつか風が吹いてくる
ひとつに意識の終わりを告げるみたいに
いつか風が吹いてくる
長すぎるエンドロールをカーテンで終わらせるシアターみたいに
夜の風は冷たく
現世の断層に痺れた身体をゆっくりと覚ましてゆく
目を閉じるとなお泳ぎ続ける亡霊が見える
それはまだあそこにいるのか
それとも俺の中に移動してきたのか
辿りつこうとするそいつの顔がはっきりと見える
「眠れ」と神は言う
なにも考えずにただ横になれと
眠ることが出来るならそれが一番いい
それについては誰に言われるまでもないのだが
裏口の窓に近くのホテルのネオンが反射して
いつもこの時間にはいかがわしい虹が見える
キッチンで水を飲むと喉に痛みが走り
腰をおろしてテレビを見ると首すじが悲鳴を上げる
それはいまここにいる
この中を泳いでいる
古の聖堂の中を彷徨う200年前の牧師のように
自分の車を探してショッピングマートの駐車場をうろついている娘のように
もうすこし早く手を動かしてみろ
もうすこしきちんと手を伸ばしてみろ
俺はいつのまにか亡霊に話しかけている
泳ぎ続ければこいつはいつかここを去っていくのだろうか
それがもしも起こるのならば見てみたいと思った
泳ぎ続ければこいつはここを離れてゆくのだろうか?
そんな理由があるなら見てみたいと思ったんだ
ねえアスファルトはもう溶けてはいないよ
ねえ泳ぎつく先には多分もう目指してたものなんかないよ
そう教えてやった方がいいのかもしれないけれど
夜が更けそして明けてゆくその音を俺は聞いたことがあるんだ
それがどんな感じなのかをこの身体で感じたことがあるんだ
それは新しい生よりはむしろ新しい死に似ていて
真新しい棺桶に横たわる自分のことを俺は考えたんだ
あいつはまだ俺の中を泳いでいる
目指す場所はもうどこにもないというのに
夜明けはまだ遠いよ
夜明けまで起きていることはひとつの死を見ることだよ
夜明けまで起きているといつもそう思うよ
亡霊は泳ぎ方を変えることはない
それはただそこに落とされた消化されなかった記憶なのだ