笑うカスタネット
m.qyi

笑うカスタネット











石原大介さんの詩を読んでいる。石原さんは、そう言うことができるとしたら、短歌を
よくした。そう言えないという人がいらっしゃれば、僕には異論はない。短歌というもの
があまりよく解からないでいる自分に短歌というものは詩なのだと作品で教えてくれたの
が石原さんで、そういう意味で僕にとって石原さんは真の歌人なのだ。僕が今そうだと思
って呼んでいる物が歌ではないということはありそうなことだし。(歌人というのは、僕が
勝手にそう呼んでいるだけで、御本人は唯のおあ兄ちゃんだった。これは、
「オレなんて首から上は扇風機 腰から下は電気椅子だョ」(「だんすがすんだ」)

と自画像を描く御本人の名誉のために特に強調しておきたい。だから、石原さんを歌人とか
詩人とか呼ぶ事を必ずしも良いことだと僕は思っているわけではない。)

「SOON SOON SOON」(2003年9月19日0時17分)が初投稿になっている。
「霧カウベル」(2004年9月13日22時31分)が最後の投稿となっている。友人の方から
メイルのお手紙をいただき、2004年9月18日に詩作をお辞めになったと教えていただ
いたので、現代詩フォーラムにアーカイブを見る限りちょうど一年の詩人活動だった。とに
かく、その石原さんは2003年9月から、翌2004年の9月の一年間に、十の短歌集
(それぞれが数首から20首前後の短歌群―「だんすがすんだ」、「エレファント・ストー
ン」、「虚飾拾遺集」、「法事にて」「山手線挽歌」「腹の七糞」「鴨よ」「人生の夏休み」
「病にロック」「D.A.T.E.」)を投稿している。その他に、評論と詩篇がある。

詩篇は、偶然なのかもしれないが、「未詩・独白」という形で発表されてある。短歌は作品
として出しているのに、詩については、「未詩・独白」として書いているという態度を頑な
に守ったかのように思われる。想像の域をでないが、EnoGuから筆名を変え、手を加える
か、納得のいくものを出したのが石原大介の作品で、2004年5月頃までがその大半を占
めているようにおもわれる。その5月の以降の作品は未詩の方が多く、作品の調子も僕の受
ける印象ではこの後期には違ってきている。あるいは、その5月以降のものは当時の新しい
作品で、それ以前のものは推敲された過去の作品であったのかもしれない。とにかく、作品
として投稿されてあったのは短歌であって、詩の形のものは未詩として扱われていたのであ
る。そういう意味でも石原さんを歌人と呼びたい理由があった。


僕が読んだ石原さんの歌というのを幾つか並べてみよう。
己が背をポリリズミックに掻き毟る 夜光塗料の壁 てらい てら
(「だんすがすんだ」)
天高し イグアノドンのアゴ出土 午後はのんびり バーベキューです
(「エレファント・ストーン」)
こんな時でなくちゃ逢えないこんな時でなくちゃ締めない たのしいネクタイ
(「法事にて」)
日暮里のウィル・オ・ウィスプが公園で「兄ちゃんライター貸してくれんか?」
(「山手線挽歌」)
芸はこれつたなけれども人のみみ転ばしめむや鴨の水掻き(「鴨よ」)
一人だけ切符の買えぬアホがいてカスタネットで病にロック(「病にロック」)

なかなかユーモラスな作品を創った。前にも述べたが題名のある数首から多くても二十首
を集める形式を使っており、その塊を一つの作品と見なしても差し支えそうもない趣があ
った。ネクタイの歌も、題名「法事にて」があるのでぐっとよくなる。確かに、ある意味
でこれらの作品が石原さんの世界を言い尽くしているだろう。ちょっとウケを狙ったよう
な洒落た詩を書くアマチュアポエットを飄々といくというのが石原さんのスタイルだった
と思う。「私は一年ほどまえに勤めていた会社を退き失業保険となけなしの貯金にてパソコ
ンを購入、偶然にもこの現代詩フォーラムに漂着、以来やっとこさ、人様に読んでいただ
くためにものを書くという行為に目覚めつつある寝坊スケな若輩者(三十ちゃい)です。
それまで詩のような言葉たちを大学ノートに書きなぐっていないこともなかったのですが、
いま読み返せばそれらは詩作品と呼べるような代物では到底ありません。」(「独白・書
くこと、と、読むこと」)前掲のポートレイといい、石原さん自身の言葉を聞けば僕の少々
失礼な石原さんの紹介も当たらずしも遠からずではなかろうかと思う。



II



石原さんの短歌を見て、確かにほのぼのとしたところはある、確かにユーモアと溶けあ
っている。しかし、先ほどの「病にロック」の歌などが好例かと思うが、どこかにわざと
らしさがある。読者には決して毒気のない、意地悪さがある。読者には大変優しい、冷酷
さがある。そこで、石原さんのユーモアはなにか独特なユーモアだなあと思う。

作品を読んでいると、石原さんが本当に静かでいることは少なかったのではないかと思
う。例え静かであっても、好ましい静けさではなかったかもしれない。
ひだまりの 庭でコップが ゲップした ぼくは静かに それを見ていた
(「だんすがすんだ」)
しっとりとえび満月が屋上で膝をかかえて病んでいました(「虚飾拾遺集」)

「ああ/僕ら寄り添って/こんな間近にいたのですね/サボテン混じりのススキ野に/腹
ばいになって...それにつけてもいろいろなものが/流れていったものです/それも歌に
する暇も無いくらいに/ひっきりなしにです」(SOON SOON SOON)と2003年9
月19日の投稿の未詩にある。このサボテン混じりのススキ野を石原さんは表向きは歌の中
で見せようとはしなかった。後になり、むしろ未詩の中でその雰囲気を出すものがあるよ
うにおもわれる。しかし、どの歌を読んでもどの詩を見てもこういった精神的な凄惨さは
基調としてもっている。
朝の椅子 朝の冷たい君の耳朶 朝の冷たいコーンフレイク(「だんすがすんだ」)

というように、石原さんはネスカフェのコマーシャルソングを描く、
外は寒いが読者の手にしたコーヒーは温かい。赤い耳たぶを見つめる目は優しい。しかし、
外はやはり寒い。雪の降っているような寒さではなくて、もっと冷たいカチンとした、凍て
ついた冬の空気だ。この詩形式によくありがちな甘い情緒の恋愛などは石原さんの歌のテ
ーマにはない。

こういうものを見ると、石原さんの歌のテーマは自分だ、自分以外何者も見ることがで
きない詩人だというのが僕の印象だ。コーンフレークの歌も場景描写のように見えて浮き
彫りにされているのは見る側の心理だ。観察者の側の眼差しの優しさの方である。
嵐の夜 波提の縁に回春の下駄をくわえて踊る先生(「虚飾拾遺集」)

―という作品にしてもこの先生が第三者とは思えない。僕には作者自身の投影に思えてな
らない。

とは言っても、一般的に自己の内面をテーマにしていく詩は多いと思う。石原さんがそ
の意味で特別であったわけではない。こういう傾向はやはり僕たちの時代の在り方で、そ
れなりに必然性があるような気がする。一種の魅力を感じられるのも現代人特有の何か共
通の意識が働いているからだろう。そうだとしたら、石原さんのこの自分を見ようとする
姿勢が多くの読者のシンパシーを喚起しているのかもしれない。

石原さんの「自分」というと、他人や、僕とは違う何かになってしまうが、その自分が
「個人」であると言い換えることができれば、距離は一気に縮まってくる。僕らの一つの
コモンセンスとして自己を個人と考える考え方は強くあるからだ。僕らは、一般に自己の
個人に自分のアイデンティティを置いている。一般的な例として、結婚の相手などを決め
るときに、決めるのは自分だと僕らは思っているのではないだろうか。

ユーモラスさが、石原さんの「自分」だったのかもしれないが、石原さんのクールさ、
寂しさといっても冷徹さといってもいいけれど、石原作品の基調をなしているそういった
トーンは現代人の「個人」の意識にあるような気がする。



III



「個人」なんて陳腐な言い草なのかもしれないが、僕には非常にひっかかる言葉だ。さ
っきの結婚の話ではないが、責任能力のある自律した個人なんて純粋な意味で在るわけが
ない。僕も君も同じ個人だといっても、その個人の尊厳があるといっても、社会的文化的、
そして物理的な条件を全く排して存続しているものではない。例え何の制約がなかったに
しても、純粋な自分の意志でものごとが決められるわけがない。よく言われるように自由
が個人の属性であると言われているが、それは簡単に剥奪され得るし、所謂公正正当な手
続きにより最終的に自由を束縛することが実際に自由主義社界のルールになっている。そ
こに、大衆の独裁を認めるものが自由民主主義であると言えるだろうし、そうなれば、功
利的なルールで自由を束縛する事を容認することになる。功利を容認するといえば、快楽
の換算が許される事になるだろう。しかし、快楽もやはり個人の属性なのではないだろう
か。よく言われるプリファランスが個人的なものであるとしたら、僕らの理想的な社会で
も個人に属する快楽も損なわれる危険に多くの場合さらされている。経済学で言うような
利害計算のできる理性的なアクターとして個人を捉えるにしても、それだけのみで、社会
の安定したルールは得られないし、利害というのも快楽を無視しては考えられないだろう。
つまり、個人というものは理念としては存在していると言えるかもしれないが、現実に手
にとって分かるような形で存在しているわけではないように思われる。だからといって、
さっきの結婚の話でもそうだが、オバケのQ太郎君のようにただふわふわテレビの中で浮
いているわけでもない、社会に影響を与え得る考え方なのだ。

個人に対して、公人という言葉もあり、個人がいる場所をプライべートと呼ぶと思うが、
このプライべートという考えは非常に新しいように思われる。これは、僕たちの意識の進
歩のためでもあろうけれど、やはり、社会の生産のあり方にも関係しているだろう。本来
労働というものは質的なものだろう。僕が何の目的もなく一時間腕を振り回していたとし
ても、よく働いたぞと言って褒めてくれる人は少ない。何か意味のある質を作り出した時
に初めて「働いた」ということだろう。それがいつの間にか、労働者である僕らが労働力
として、つまり労働エネルギーに量的に換算された形で、マーケットに出ることができる
ようになった、つまり、8時間は働いて、その他の時間が質的な時間として残った、そこ
にプライベートな生活が生まれる理由があったのではないかと思う。プライベートに関わ
る権利であるプライバシーの問題が職場などで問われることはよくあるが、それは、個人
の尊厳に関わって言われる。その個人が存在していて初めて労働マーケットに自分という
労働力を売り出す事ができる。そこにプライベートな空間と同時に公的な空間も発生する
のであるから、もともとは個人の発生が個人をその自己の尊厳から離脱させる場所を造っ
たとも言えることにもなるだろう。そして、生産のシステムが原理的に公的生活の中で営
なまれているとすると、プライベートな生活も残念ながらその生産システムによって造ら
れた世界によって囲まれ、結局は営まれていくだろうから、プライベートな空間もまたそ
の権利であるプライバシーも量的な社会の中に限りなく呑み込まれていくわけなのだろう。
労働が人間の属性であり、人間が質的であるとすれば、量的にならざるを得ない社会はな
んとも住み心地が悪いに違いない。個人というもの(個人を成立させる条件)があるとす
れば、これは人間性の剥奪の源泉であるかもしれない。

個人という考え方は、しかし、既存の権力に逆らって、つまり、個人を解放して、民主
主義の原動力になったのも事実だ。個人はいかなる社会的権威にも規制されてはならない
尊厳をもっているからこそ、男女は平等であり、教育は平等に与えられるべきであり、人
種差別は許されてはならないのであろう。物理的に拘束(暴力)してならないのも、個人
の自由を奪う事になるからに他ならない。正当防衛も同じ趣旨だろう。先ほどの結婚も、
あくまで当人達の問題なのだ。教会が異教徒との婚姻を干渉することはできない。ヒュー
マニズムの源泉が個人にあると言っても間違ってはいないのではなかろうか。

僕らのような詩を書くものからみれば、社会とは個人を軸にしてこの人間性の解放と、
人間性の剥奪が複雑に入り混じって自分達に影響してくる環境だ。ここには、二つの困難
が待ち構えているような気がする。一つは、自分たちが既にその環境にいると言う事だ。
僕たちは社会の外に出られるわけではない。もし、社会が泥水であるとしたら、そこに住
む魚は泥水が濁っているということがどうして分かる事ができるだろうか。そこに、つま
り、作品そのものの中にではなくその作品と鑑賞者の間の構造的な関係に作品の価値を生
みだそうという芸術手法を駆使する理由も出てくる。第二に、僕たちが個人を軸として物
事を見ざるを得ないとしたら、一方を是とし、他方を非としたとしても、片方を叩けば、
もう一方が引っ込むと言うのが道理で所謂「もぐら叩き」と同じ事がおこってしまう。プ
ライバシーと商品としての個人はコインの裏表にあるのかもしれないのだ。

全ての価値の量化が可能になりそれが促進されれば、そこで肯定されるべき価値は、合
目的なものではなくて、効率性や無矛盾性だ。社会的な解放というのは別の意味では社会
的なコンテクストの個人への還元なのだろうから、広い意味での社会的な(文化的という
方が正しいかもしれないが、)コンテクストは良いものであろうと悪いものであろうと寸断
されてくだろう。これは、近代性の発達に相互に作用して速度を増しながら発展していく
ことになるだろう。社会的コンテクストが壊れていくと言うことは、いままでのタブーが
取り去られていくということに他ならないだろう。こういう傾向は、芸術にも、(あるいは、
芸術にいちばん早くなのかもしれないが)影響して、解放(タブーの剥奪と言ってもいい
だろうが)の傾向を強めていくことがあるだろう。リアリズムは一つの主流だ。印象派も、
キュービズムも一種のリアリズムだったと僕は思う。モンドリアンなどのアブストラクト
アートもそうだろう、空間の抽象化だ。逆に、機能美というような考え方は疎外性を肯定
的に見た一つの功利主義だろう。疎外性を批判する見方で、質的な人間性の回復の可能性
を追求する方法としては、構造的に主観を表現しようとするもの、エクスプレッショニズ
ムの方向性がもう一つの主流だろう。表現主義はもちろん、アクションペインテイングや
ポップアート、ミニマルアートもエクスプレッシヴだと僕は思う。両方の方向性があいま
って、デコンストラクテイヴな芸術傾向が造られているのではないかと憶測する。

以上は、自分の想像に過ぎない。御批判多きところだと思う。識者の御教示をお待ちし
ています。実際は種々の流れが錯綜し、影響しあい、単純ではないに違いない。従って、
あまりに常識的(ナイーブ)で非現実的なモデルによる粗悪なシミュレーションなのかも
知れない。実際にいくつかの社会に生活していても、個人化の進んでいるといわれる社会
の方が疎外感を感じるよりは感情の繊細さや豊かさを感じる事の方が多い。社会の表面に
浮き彫りにされにくい文化的な影響はその社会には大きく働いているだろうし、生態的な
影響も大きいに違いない。しかし、石原さんの作品を見てもそうだが、僕が詩を読み書い
てみて、また、狭い範囲ながら一般の芸術作品にも触れてみて、近代以降の作品が個人と
いう考え方から全く切り離されて出来上がっているとはどうしても思えない。個人という
意識が強く働いて作品が創られているもの、そのような作品が高い芸術性を持っているの
ではないかと言う印象を受けるが、それは、僕の正直な気持ちなのである。



IV



さて、石原さんの作品に戻って、石原さんはリアリストの目を持っていたと思う。「法事
にて」の諸作品を見ても、伝統的な価値観に基づいて親族という役割を果たす一員として
法事というイベントを見るようなことはしない。もし、石原さんの見方がそういうもので
あったなら、石原さんの作品は失礼の一言で片付けられても文句はあるまい。当事者とは
全く関係のない人間か、或いは、法事と言うものを全然知らない一人の外国人が法事に通
りかかったように、石原さんはそのイベントを見ているように思われる。
白黒白黒 テントに籠もる咳払い 秋の夜長の神経衰弱
球場の泥にまみれた六十余年 折って重ねてどうにか壷へ
三回忌 ビールを注げば割り箸でニッポンの夜を照らす神様

こういう描写は、それが内心の印象や、過去の事実を織り込んではあるかもしれないが、
目の前に映る情景のデッサンだ。そこに、面白さがあるとも言えるかもしれないが、これ
らの作品の良さはそういう単純な面白さではないと思う。なぜなら、石原さんは決して第
三者を眺める事などしていないだろうというのが上述した僕の理解だ。この「法事」の作
者である石原さんは観察者でもるが、観察している対象は同時に法事に参加している石原
さん自身でもあるのだと僕は思っている。そこに、石原さんの世界の面白さがある。面白
さというのは、そこから逃れられないという面白さだ。へえ、アメリカ人ってあんなこと
すんだ!外国人はその妙な癖を見つけることができる。そこに、旅行の楽しさがある。で
も、旅行者は帰る国がある。石原さんは、へえ、俺ってこんなことすんだ!、へえ、俺っ
て意味ないじゃあん!と見抜いてしまい、言ってしまう。自己が自己観察をし始めると、
裏も表もなく見えないところが無くなってしまう。前述の当人には見えにくい相手の妙な
癖ばかりか、その背面にある心理までも、鋭い自己観察によって、浮き彫りにされてくる。
それだけに、面白いのだ。しかし、それがそれほど面白いだけに、このような観察者には
帰る家はない。

石原さんは、自分を見つめていって何を見出したのだろうか?僕は何も見つけられなか
ったんだろうと思う。個人の中に何か価値なんて見つけられる筈はないと僕は信じている。
石原さんも同じだったんじゃないか。個人の芸術的情熱とかなんとか、そういう事を言う
人じゃない。それだけにそれこそ必死になって探したんだと思う。どうしても見つけなけ
ればならなかったから、あんなに冷酷な観察者なのだ。

そして、じゃじゃじゃあああん!なあああんにもない。大笑いなのだ。おまけに、逃げ
場がない。
猪口才な! 周回後れのネズミの尻尾にまるいくしゃみのとまらない夢(「虚飾拾遺
集」)
三分でラーメン喰って破滅してドンブリもろとも叩き割る街(「だんすがすんだ」)
ベランダでダンスにふける脱水機 馳せる想いのカラマワリかな(「エレファント・ス
トーン」)

その時の焦燥も感じられるのである。

もし、個人に意味がないのなら人はどうすればよいのだろう。普通は、その無意味にな
ってしまった個人を社会的文脈にもう一度組み込ませていくことによって価値は見出され
るだろう。しかし、それは、個人に価値を求めたものにとっては挫折でしかない。その個
人を観察した目は同時に劣らず詳細に社会も観察してきた目だ。社会が個人にどのような
牙を向けているか誰よりもよく知っている目だろう。安易な問題の解決法として、プライ
ベートの領域を広げると言う方法がある。それは、一つの大きな譲歩を前提としているの
は言うまでもない。冷徹な観察者がその偽善を見逃す筈はない。あるいは、家族からの愛
情というような人生生活に於ける様々な困難もあるかもしれない。疾病というような身体
的、精神的限界もあるかもしれない。やはり、逃げ場はないのである。

しかしながら、この無意味な逃げ場のない場所にはいまだに無意味という言葉では単純
に割り切れないものが残っていると僕は推測する。以前引用したコーンフレークやコップ
の歌、或いは、
サンダルの散らかりすぎたすぎた滑走路 紙ヒコーキの泳ぐ地下鉄(「虚飾拾遺集」)
  五十円玉の虚空の砂嵐 裏にはためく緋色の絹布       (「虚飾拾遺集」)
  おひさまがカレーを喰って昼下がり二人で蹴飛ばすボンゴの大地(「腹の七糞」)
  空色のシーラカンスがゲップをすればこの裏庭に風が吹くのだ(「人生の夏休み」)

これらの歌が描く風景は純粋で美しい、鮮明な色がある、或いは、広がりもふくらみもあ
る風景だ。他にも、こんな未詩の美しい一篇もある、
たとえば



ジクソーパズルをさ

五六個買ってきてさ

縁側に放り出して

ビールを飲んでいます

ワーオ!



(「ハッピーマンデーズ」)


 そして、言うまでもなく、「笑い」だ。すでに紹介した、
天高し イグアノドンのアゴ出土 午後はのんびり バーベキューです 
(「エレファント・ストーン」)

僕だって本人に聞いてみなければわからないが、庭で鶏肉を買ってバーベキューしながら
書いた歌ではあるまい。イグアノドンのバーべキューでなければ面白くない。何万年前の
ものかは知らないが今朝出土された化石の恐竜のアゴ肉をゆっくり焼いて昼飯にしてやろ
うというんだろう。あなたがそんなの無理だと言うのなら、僕には返す言葉はない。しか
し、歌、或いは詩としては成り立っているだろう。その証拠にあなたは笑って読んだだろ
う。理屈が通らないところをなんで笑うことができるんだ。

僕は、石原さんの歌の基調は個人の探求で、その場に価値など見出されるはずはなかっ
た、作者当人も最終的にそう思ったであろうと強調して述べた。もし、そうだったとした
ら、その無意味な場所に、なぜ美しさや笑いがあるんだろうか。矛盾ではないだろうか。
美しさなんて曖昧なものだ。嘘もつけるだろう。しかし、腹筋を動かす笑いとなるともっ
とハッキリしているではないか。人生なんて死んでいくのだ。その死んでいく工程を生き
ると呼んでいるんだ。死んでいくと生きるという状況に何の差もない。生きると言ってい
るのは、僕なのだ。生があるわけじゃない。そのように、個人は例え無意味であるにして
も、創造的なものだ。もともと、個人のような理念が想定でき、価値の喪失が促されてい
るのも、それが意識内のみで考えられているからだろう。しかし、この意識内に限れば、
個人はどうしても創造的なのだ、能動的なのだ。その証拠に、無意味を意味あるものに、
少なくとも笑えるものにすることができる。個人自身に意味は見出せないかもしれないが、
個人は構造的に創造の必然性を内包しているのである。個人の内面と同様、笑えるものを
対象としていくら分析したみたところで、笑える意味を引きだすことなどできない。先ほ
どの「人生」などというのもそもそも唯の言葉だ。しかし、「死んでいく時間」が実際に
「生きる」というのはどういう意味だ。それは、笑ったということではないだろうか。少な
くとも、一つの生のあり方として笑いは肯定できるのではないだろうか。

このような笑いを創り出すには、個人の深淵にまで迫って(本来無意味な)個人を描き
出せなければならない。だから、第三者の観察などでは不充分なのだ。自己追求にならざ
るを得ない。そこで見ている自己と見られている自己の構造的な対比を浮き彫りにして個
人の持っている創造性を喚起しているところに、石原さんの短歌の本質があるような気が
する。石原さんの短歌の本質は、勿論、石原さんの創造性だ。しかし、喚起される創造性
は、石原さんが創造したものというよりは、読者の「個人」的存在としての創造性だろう。
そこに、芸術としての普遍性があり、人間としての「個人」の探求や救いがある。

最後に、「霧カウベル」という詩を紹介してみよう、


霧カウベル



母親の 茶色い

誕生日の カウベルぶるさげ

タバコが 寝間着すら持たず

財布で 夜と繰り出し





憾喚恨魂

ちっぽけな ヒメゴトを ロータリーを

寒肝困痕

かけめぐる おのが隈音にいらだち

  総毛立ち 総毛立ち 総毛立ち 何一つ

  思い至らず





 



                    (間)







たどり着いてしまった 探し求めていた オーデトワレの つぶらかの秋に 笑い止まらず 

僕の印象では透徹な自己の観察者である石原さんはこの詩の中にはいない。自己はもう第
三者として見つめられていない。苦しく弱く痩せ我慢をしている自己を他人として徹底的
に描いてはいない。読者より、石原さんの方が先に笑ってしまったのだろう。だから、皮
肉な事に読者は笑えないのである。





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散文(批評随筆小説等) 笑うカスタネット Copyright m.qyi 2004-11-10 13:57:16
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