【批評祭参加作品】村上春樹の過大評価を考える
番田 


村上春樹氏の小説の意味は全然わからない。そしてなぜ、こんなに万人受けするのか、よくわからなかった。私は彼の小説は読んだことがあるのだが、私に対して何の感銘も与えられなかったし、多くの人のように、手放しで賞賛するということはできなかった。彼の小説は、何かを訴えたいのだということについて、私たちに対しては明確な風景を与えることなど不可能で、雑誌の四コママンガのように記憶の隅から消されていく。彼の小説は、登場人物は少ないし、風景が明快に描き出されるということも少ない。読者としては何をどのようにして読んだらいいのかを困惑するばかりである。それは何故なのか。寝言を言っているように読むこともできる。心理描写なのか?風景描写なのか?本当にはっきりしない。わたしはそれに、本当に長い間彼の小説を読んではいない。長編を書くようになってから文体が間延びするようになってしまった。また、私は売れている本などあまり好きではない。


要は彼の書きだすものは芸能人の描くエッセイのようなものなのだ。そうなのではないというのなら、あんなにたくさんの人の賞賛を得ることなどできないだろう。彼はアメリカ人作家を翻訳してみたり、文の中にかつて大量生産国家だった頃の商品をモチーフとして引き合いに出してみるところもよくわからない。村上春樹の書いた作品のルーツは、どちらかというともっと日本的なものと似ているのだと思うのだが、自国の文化を否定してまで他国のものを引き合いに出すというのは非国民のすることとと似ているのである。私はその点においても、彼に対して賛同できない。


話しは変わるが、私がちょうど三年ほど前アメリカに留学していた頃、アメリカはああいった小説や文学好きがいたわけで、彼らに村上春樹の名前をなんとなく出してみても、これに対しては知っていますという人はひとりも見あたらなかった。村上の知名度は、世界ではあまりないのだ。彼らにとっては自国やイギリス人作家に対する敬愛の方がより膨大であった。そんなものなのである。日本という閉塞された場所を出ると、誰一人世界の片隅の島国に関心を寄せている人間など存在しないということなのである。しかも、ああいったアメリカやイギリスの作家に見られるような消費文化としての普遍性に対しては、恐怖感を感じるということを私は否定することはできない。


例えば誰もが知っている作家であろう、ホラー小説の書き手などはアメリカには多く存在するであろう。それらに感化されたところで、人間として道徳心につなげられると言うことは、本当に困難なところである。これらはわかりやすいが、現代的なモチーフが多く使われているうえ、若者には、取っつきやすい文体だともいえるのかもしれない。しかも、これらは文学的な哲学性をはらんでいるのかといわれれば、否定することもできないという二重のクオリティがある。


このようなアメリカの小説と、村上の小説を比較してみると、そこに大きな違いが存在するのであり、彼の小説がアメリカ文学界に与えられる影響はあるのかと問われたところで、無いのだとしか言いようはない。村上作品がアメリカ文学から得られる影響は、多大であるとしても、その逆はないのだということである。それは、彼が紛れもなく日本人の作家であるという理由であるからに他ならない。彼がアメリカ人なのだとしても、彼は日本人作家である。このことは彼自身の作品自体が明快に主張している。



散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】村上春樹の過大評価を考える Copyright 番田  2011-03-09 01:47:32
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