【批評祭参加作品】わかンない!
藪木二郎

 小説の場合、著者が提供しているのは図式だけで、作品を完成させるのは批評だったり、読者側での読書行為だったりするのだという考え方が、ある程度でしょうが、承認されているように思います。たとえばあの『文学部唯野教授』の講義などにも、そうした考え方を紹介している部分が、あったように思います。
 ところが詩の場合、詩とは詩でしか表現できないもののことだ、といったような定義もあるようでして、にも関わらず、ある詩に対して批評が加えられるというようなことが起こるとしたら、そうした場合、それは詩ではないと、言われてしまっているようなものだと思うのです。
 実際、詩についての批評の多くが、こんなものは詩ではない、といったような部分を、持っているように思います。
 ネット詩なんか詩ではない、といったような批評が、その最たるものだと思うのですが、それでは、そうした批評をしているひとたちが、自分たちでは詩の定義を示さず、自分たちの実作を観てよ、などと言っているのだとしたら──、それは、無敵の立場になってしまうだろうと思います。
 と言って、そうしたひとたちが、君たちが書いているものだって詩ではないだろうと言われ、それに対し、これはこれこれこうした意味で、立派に詩なのです、と反論したとしたら、それはやはり、詩ではなくなってしまうわけですが……。つまり、散文で表現できてしまったわけですから……。
 いつもの話を蒸し返してしまっているようなのですが、それでも、この種の疑問に関しては、一向に答えて貰えないのです。答えて貰えない以上、たとえニーチェの言う末人に成り果てようとも、なぜ? と聞き続けるしかないだろうと思います。
 思えば私は、詩の問題に限らず、そんな質問ばかりして来たように思います。
 その語り得ぬものって何なのでしょう?
 その企投性を投げた奴って誰なのでしょう?
 そしていつも、馬鹿扱いされて来ました。まあそれはそれでしかたがないことなのですが……。
 詩の話に戻します。
 吉増剛造さんの詩についての批評から、引用してみたいと思います。

 言葉が出来するとは、どのようなことか。一つの、そして、つねに多数なるものへの約束を交わす一つ‐でない言葉たちが場を持ち、場を保つとは、いったいどのような事態であるのか。それも、その言葉たちが、みずからの生起以前にはいかなる構造も平面も先行的に借定せず、一切の目的論的運動性を欠いたまま、ただみずからの純粋に不確定な現れを告げ知らせ、つまりはみずからの決定的な偶然性をあらゆる真理・意味・起源の保障ぬきに絶対的に肯定する、そんな力に結ばれているとしたら? そして、そのような言葉たちが生まれるとき、それはいったい誰のものであるのか。すなわち、そのつど一度かぎりのもの、だがそれでいてつねに無限に反復されつつあるものとしてみずからを送り届けるその言葉の単独性=多数性は、いったい誰の署名を求めているのだろうか。(守中高明「無言・偶然・わたくしたち──「The Other Voice」論」『現代詩手帖』思潮社、一九九九年一〇月、三七頁)

[……]アルチュセールにとって、「世界」とは、概念の一般性による抽象を離れたときにこそ、特異=単独なるものたちの実在として露出するものなのであり、そこでは「それぞれの特異性や個別性」は、「同じく特異な言葉」によってのみ指示される。それゆえ、例えば「ここと今」は、その言葉が「すでに一個の抽象」であるからには「結局のところ名づけることはでき」ず、ただ身振りによって指し示されるだけなのである。「The Other Voice」の吉増剛造が「無言の口の瞳に倣」うことで行おうとしているのは、まさしく、このような意味における一般性を欠いた個物=単独性をそれとして指し示すことであるだろう。詩句の一つひとつに複層的なルビを振り、傍点を打ちつけ、さまざまな括弧や符号を刻みつけ纏わせることによって、詩人はみずからの言葉の持つ一般性──それは言葉が言葉として機能するかぎり不可避的なことである──を、かすかにではあれ決定的に綻ばせ、みずからの作品をして個物=単独性たちがそれ自体として互いを伝達し合うことのできる場、すなわち世界の偶然的実在が肯定される場たらしめようとしているのだ。引用され、織り込まれているさまざまな固有名──「Simone Weil」、「Issac Newton」、「William Blake」、「エミリー」、「大野一雄」……──もまた、したがってここでは、その「固有」性の指示機能を解体されて、単独者として呼び集められ、互いに結び合わされている。そこでは「記号に対する物質的痕跡の優位」(アルチュセール)が、静かに、しかし決定的に宣言されているのである──(同、三九‐四〇頁)

 だが、すでに見たところから明らかなように、この「わたくしたち」という独自の音域で鳴り響いている人称が指し示しているのもまた、単なる一人称複数の一般性ではないし、あるいは特殊な個人たちからなる一つの集合でもない。そうではなく、「神は、おそらく、数をかぞえない、」と書きつける詩人にとってこの人称は、あらゆる一般性の手前あるいは彼方にあって、「私」たちの抽象性を解きほぐし、「私」たちの存在を特異性=単独性に送り返しつつ結び合わせる、そんな一つの非可算的な分節性のことなのである。(同、四〇頁)

 皆さん、ここに書かれていることのうちの何かしらのことが、理解できたような気がしましたか? 何かしらではなく、ほとんど全てが理解できた? それは凄いですね……。
 私には全てが、何のことやら……。
 ところが、どうせ私は馬鹿なので、という諦めさえ、赦しては貰えない様子なのです。
 どうもこれらのことについては、ドゥルーズとかいうひとの微分とかいう用語だとか、デリダとかいうひとの差延とかいう用語だとかが、関係して来るようなのですが、その後者のほうのひとに触れていた、割りと最近の文章から、引用して締めに……。

[……]「私たち」って誰なんだい。河津だってデリダくらい読んでいるだろうから、一人称複数を不用意に口にすることの危険は充分承知のはずだ。ましてこれは散文ではなく、詩的言語である。(四方田犬彦「いつもすでに中上より遅れて 河津聖恵『龍神』」『現代詩手帖』思潮社、二〇一〇年一〇月、三五頁)

 まあ私も、そして皆さんも、この河津とかいうひとではないわけですから、デリダとかいうひとを読んでいないからといって、それほど気にする必要はないのかもしれませんがね……。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】わかンない! Copyright 藪木二郎 2011-03-08 23:15:34
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第5回批評祭参加作品