ヒューム「ベルグソンの芸術論」(6)
藤原 実

寺山修司二十歳のおりのエッセイ(「カルネ---<俳句絶縁宣言>」)に「美学をぼくはVOUクラブで学び、…」という一節があります。「VOUクラブ」は北園克衛が結成し、詩誌「VOU」を発行していました。北園は高校生の寺山が送ってきた同人誌を読んで、その才能に興味を持ち、大学入学のため上京した寺山をVOUクラブに参加させています。
北園は「幾何学的な芸術、T.E.ヒュームのオピニヨンに共通した非人間主義的な傾向を鮮明にしていた」(「黄色い楕円:一人のVouポエットの記録」)と書き、またエズラ・パウンドとも交流があるモダニズム詩人でした。北園を通じて寺山はモダニズムの美学から大いに影響を受けたのではないでしょうか。


詩が知性と感性のバランスによって構成されること、そのバランスを作品にあたえるには科学的な方法が必要であること、それによって天体のような秩序のあるアクティヴィティをもった詩的世界を再組織すること、またいわゆるアレゴリイとかシンボルとかメタファなどを利用して詩を書かないこと、つまり「意味によって詩(ポエジイ)を作らない」で「詩によって意味を形成」するにとどめる。
…それらの詩は、ポエジイそのものの純粋な表現であって、観念のシムボルでもアレゴリイでもメタファでもない。

        (北園克衛「詩における私の実験」)



でも一方では、パウンド等に日本の俳句が強い影響を与えたことを考えると、「中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった」(『誰か故郷を想はざる---自叙伝らしくなく』)という寺山にとって俳句のなかのモダニズムにつながる部分---事物のモンタージュやイメージのオブジェ的配置法など---はすでに自家薬籠中のものでもあったはずです。
十代のころすでに寺山は先輩俳人の句の中からお気に入りの単語を抜き出し並びかえて句を作り出す、というような作業に熱中していました。彼は生来のモダニストであったのかもしれません。


「寺山修司にとって俳句とは、言葉の錬金術を楽しむべき容器にほかならなかった。
…とすれば、五七五という枠のなかに投げ入れられる言葉は、寺山修司にとって意味であるよりもむしろ物質に近かったと考えることができる。それらは、なによりもまず母音の数であり子音の響きであった。意味はそれらの言葉の組み合わせのうえに蜃気楼のように立ちのぼる架空の城にほかならなかったのである」
「寺山修司は俳優の肉体を驚くべき仕方で組み立ててみせる。句や歌において、言葉を驚くべき仕方で組み立ててみせたように。
…だが、寺山修司の演劇は人形劇にすぎないなどと批判することはできない。
…手が義手であり足も義足であるとすれば、それは人形なのだろうか人間なのだろうか。臓器のほとんどが交換された場合はどうなのだろうか。いったいどの部分をもって人間というのだろうか」
「『私』とは何か、『主体』とは何か。…この問いは、寺山修司においては深層への問い、内部への問いなどではまったくなく、まさに表層への問い、外部への問いにほかならなかったのだ。
 それは句や歌の作者とはなにかという問いと踵を接している。言葉の錬金術を楽しむその人間は、はたしてその句をひねり、歌を歌った当人、すなわち作者なのだろうか。むしろ作者とは、その句や歌によって逆に作り出された幻なのではないだろうか」
        (三浦雅士『寺山修司---鏡のなかの言葉』:新書館)



寺山修司の劇団「天井桟敷」の旗揚げは1967年。その劇団員募集の際のコピーは「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」というもので、「見世物の復権」がテーマでした。このコピーだけみても、すでにコトバをオブジェ化し、さらに人間をコトバと同様にオブジェとしてあつかい、その内実を問わないという寺山の特徴がでているようです。
その第二回公演『大山デブコの犯罪』について寺山はこう書いています。


「私にとって、この作品の台本はどうでもいいのであり、要するにステージの上に100キロ前後のデブコ数人がならび、他にヌード、セミヌードの男女が見世物小屋の絵看板のように立並びさえすればよかったのである」
        (寺山修司『戯曲 青森県のせむし男』:角川文庫)


ここには1960年前後からさかんにおこなわれるようになった「ハプニング」とよばれるパフォーマンスと共通する肉体のオブジェ化があるように思います。
スーザン・ソンタグ(1933-2004)によればハプニングのひとつの特徴は「人間を《登場人物》というよりもむしろ物体として利用したりあつかったりすること」です。


「ハプニングに登場する人間は、麻布の袋や丹念に作られた紙の被いや経帷子や仮面などで身体を隠すことによって、自らを物体のように見せることがよくある。
…ハプニングの行為の多くは、暴力的なものであれ、その他のものであれ、人体をこんなふうに物体として使うことから成り立っている。
…単純な動作が、何度も何度も繰り返して続けられ、ほとんど気違いじみたものに感じられるまでになる」
    (スーザン・ソンタグ「ハプニング---ラディカルな併置の芸術」/『反解釈』:ちくま学芸文庫)


さらにソンタグはハプニングはもちろん二十世紀のあらゆる芸術にはシュルレアリスム的感性が流れているとしています。


「これらすべての芸術におけるシュルレアリスム的伝統は、ありきたりの意味を破壊し、ラディカルな併置を通じて新しい意味ないし反意味を創造する(《コラージュの原理》)という考え方によって結ばれている。



そしてこの感性には「ある種の情熱的非芸術を喜ぶ傾向」があるといいます。それは「ラディカルな併置」にとって重要な「機知」を成り立たせるために必要な趣向です。ソンタグはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録のなかの「私がサルトルやオルガとたびたび日曜の午後を過ごした蚤の市を流行させたのもシュルレアリストだった」という文を引用して、次のように述べます。


近代文明の産物のなかで、空虚で時代遅れで影が薄くなったものに対して、ある機知に富んだ味わい方をする傾向が生まれたのは、シュルレアリスムの原理のせいであることを、思い出させてくれるからだ。こうして生まれたのは、ある種の情熱的非芸術を喜ぶ傾向で、普通には《キャンプ》と呼ばれる趣味である。毛皮の裏地をつけた茶碗、ペプシ・コーラの栓でこしらえた肖像画、どこへでももって行けるトイレットの水盤といったものは、一種の機知を含む品物を作り出そうという試みの現れである。この機知は、キャンプによって目を開かれた通人の鑑賞家が、セシル・B・デミルの映画や、漫画本や、アール・ヌーヴォーのランプ・シェードを見て楽しむときに味わう種類のものだ。こういう機知が成り立つための主な条件は、当の品物が、普通の基準からすれば、決して高級な芸術でもよい趣味のものでもないことである。対象が軽蔑されていればいるほど、あるいは表現されている感情が陳腐であればあるほど、よいのである」



寺山修司は初期の天井桟敷を回想して「私は見世物からメイエルホリドまでというキャッチフレーズで、巨人侏儒から変身願望者、衣装倒錯症など『いわゆる祝祭的人間』ばかりを集めて、カーニバルを演出することばかり考えて」いたと書いています(『戯曲 毛皮のマリー』:角川文庫)が、彼のなかのキャンプ的要素をうかがわせます。

「アルトーは、私の演劇の入門書」(『消しゴム---自伝抄』)と寺山は言い、天井桟敷の『邪宗門』が海外で上演された際には「アントナン・アルトーの演劇論の実践」(『戯曲 青森県のせむし男』:角川文庫)という評価をうけたそうです。が、一方で「観客に手をふれる演劇」という非難もあびています。
ソンタグはそのアントナン・アルトー(1896-1948)の演劇論こそ「ハプニングがどんなものであるかを、何ものにもましてよく説明している」と述べています。


「悲劇と同じように、喜劇も必ず生贄(スケイプゴート)---罰を受けて、その見世物が模倣的に表現しているような社会秩序から追放される存在を---必要とする。ハプニングにおいて行われることは、アルトーが、舞台を---つまり観客と演技者とのあいだの距離を---消し去って、「文字通り観客を包み込む」ような見世物を作り出すためにあたえた指針に、忠実に従った結果にすぎない。ハプニングの場合には、この生贄(スケイプゴート)は観客なのだ。



このソンタグの「ハプニング---ラディカルな併置の芸術」を読んでいると、まるでこの文章が寺山修司が演劇へ向かう際の水先案内人だったのではないかという不思議な思いにおそわれます。実際にはこの一文が収められたソンタグの『反解釈』が出版されたのは「天井桟敷」の旗揚げ前年の1966年、翻訳されたのはずっと後のことになりますから、そういう関係ではなかったと思いますが。

「天井桟敷」は海外では高い評価を受けながら日本では「アングラ」という風俗のひとつの現象としかみられず、長い間まともな演劇としての批評の対象にもならなかった、と聞きます。モダニズムのコトバの錬金術をそのまま舞台にもちこんだような寺山の演劇はハプニング的要素が強すぎたのでしょうし、素人ばかりを舞台に上げて好きなことを叫ばせるなど完成度を度外視したキャンプ的演出が高尚な演劇好きのひとたちによく思われなかったであろうことは想像がつきます。
そして演劇だけでなく詩の世界においても寺山修司の評価というものは微妙です。
『寺山修司コレクション2 毒薬物語』(思潮社)によせた文章の中で荒川洋治は寺山のコトバの取り扱い方に機械のような手さばきを感じ取っています。


「…言葉の操作に、人間ではなく何か機械的な物の触手を感じる。
 人形めいたといいかえてもいい。この機械的な言語操作が、寺山修司の実験詩の一つの特徴となる。
 観念の反転、空語、逆説、アフォリズム、パロディーといった、これまでは詩の付属品でしかなかった要素や機能が、さまざまな構想と意匠、機知をもりこみながら自在に展開し、肉体のできごとを見下すかのように表現を活性化し、その詩の動力におさまるという奇観…」
        (荒川洋治「詩人寺山修司」)


親しくつきあった谷川俊太郎でさえ「寺山は現代詩にはいいものがなかった」というようなことをどこかで言っていたように記憶しているのですが、これは戦後詩におけるモダニズムへの評価の低さがそのまま影響しているようにぼくには思えてなりません。




(補足)
劇団「天井桟敷」についてあれこれ書いていてなんですが、その舞台をぼくは観たことがありません。寺山の晩年、「天井桟敷」は関西公演もおこなっていて、観るチャンスはあったのですが、なぜか「観たい」という気になりませんでした。
そしていまでもそのことに対する後悔の念というものは不思議と湧いてこないのです。
ぼくにとって寺山修司とは、ただ彼のコトバであれば充分、なのです。


散文(批評随筆小説等) ヒューム「ベルグソンの芸術論」(6) Copyright 藤原 実 2011-03-07 22:25:42
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