悲しいことがあると僕はいつも2
花形新次
朝丘雪路がボインの起源だなんて知ったらさ〜あ、ますますボイン好きになっちまうじゃねえか。そんな風に20代前半の私は思っていましたが、まさか私の彼は左とん平を歌ってたのが、同じ朝丘とはいえ朝丘MEGUMIの方だとは知りませんでした。今やドラゴンアッシュ夫人のこちらも超ボインです。
そんなこんなで、前回、私は縁あって、相撲取りの手相を見て、その相撲取りがどこまで番付を上げられるかを占うという、いわゆる部屋付き占い師として、てっぽう稽古で手のひらツルツルの毎日です、とお話しましたが、それは真っ赤な女の子であって、本当は某家電メーカーに終身サラリーマンとして就職したのでした。両親の反対にあって、結局バレリーナ型の人間になることを諦めた結果です。しかし、子供の頃からトッポイ次女に憧れ、将来はステキな非戦闘型闘牛士になるのが夢だった私は、当然会社生活には馴染めず、怒りと絶望の日々を過ごしていました。そんな私ですから、入社したての頃は、右はよく分かりませんでしたが、左はある程度分かりましたので、先輩社員に、「さてはお前、左よりだな。」とあらぬ疑いをかけられたこともありました。しかし逆境でも私は持ち前のそつのなさで、「今日の私は幾分右によってます。」と言って、チップをはずんでもらうこともしばしばでした。依然として、モノポリー、いや違うな、サナトリウム、ん、これも違うな・・・、ああそうか、そうだ。プラネタリウムだった私が突如才能開花して、家電業界の安打製造機榎本喜八と呼ばれるようになったのには、理由がありました。実は好きな人が出来たのです。
同じ職場のゆう子ちゃんでした。ゆう子ちゃんは人間で言うと、元ニャンチュウ(おかあさんと一緒に出てくる体操のお姉さん)のクニナマ・サヨリにちょっとだけ襟足が似ていました。クニマスではありませんのことよ。ギョギョギョギョーッ!
私はゆう子ちゃんに振り向いてもらおうと、毎日5時間スタイリーを行いました。その結果、職場での私の評価もアナゴ上がりにたのんだら寿司屋もびっくりするだろうな、というところまでになりました。ゆう子ちゃんも次第に私に股を開くようになってきました。
ところが、そんな時です。あいつが私たちの前に現れたのは。美食家で陶芸家のあいつこと、うなばら・おやま、またの名を天才女性漫才師うなばら・まんりです。あいつのアンチェインド・メロディをバックに流しながら、背後から一緒に粘土をこねくり回すという手法に、ゆう子ちゃんはメロメロになってしまったのです。せっかく私に開かれた股もレースのパンティが赤だったことを私の脳裡に残して二度と開かれることはありませんでした。その年、ゆう子ちゃんは、自分探しの旅に出たまま、行方不明になってしまいました。
今でも駅前では、うなばら・おやま達によって、たまにビラが配られたりします。
私はというと、その後新しく入ってきたよう子ちゃんを好きになってしまい(いわゆるササニシキってやつだろうがっ!)、アタックNo.1の日々を過ごしていましたとさ。
つづく