【批評祭参加作品】いい仕事の核
深水遊脚

 とても好きだけれど、真剣に読めば読むほど後ろめたい気分になる詩がある。自分の核になっていたはずだと思っていたのに、今の自分からは遠い、そんな詩がある。


年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外に向かってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
(茨木のり子『汲む−Y・Yに−』)

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけているやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
(宮沢賢治『告別』)

 宮沢賢治の『告別』との出会いはわりと最近のことだった。村山由佳の『天使の梯子』という小説で冒頭にこの詩の最後の5行が引用されていたのだ。登場人物の斉藤夏姫がこの詩をとても大切にしていた。夏姫が国語教師だったときに生徒だった古幡慎一にこの詩を朗読させ、あまりのドンくささにあきれたこと、その後慎一が暗誦してみせて名誉挽回したこと、ずっと後になり教師をやめた夏姫と慎一がつきあうようになったこと、慎一をかわいがって育てた祖母が死んだこと、最後に自分が放った心ない一言を慎一が深く後悔したこと、夏姫も姉を亡くしていたこと、その姉の、そして自身の元彼でもある一本槍歩太の描く絵に、『告別』の最後の5行に描かれたような光の筋が描かれていたこと、などこの『告別』という詩が小説の様々なシーンで関係してくる。寂しさでもって何かを形作るイメージ、空のパイプオルガンで音を奏でるイメージはこの小説の底を流れ続けるものと共鳴するのだろう。
 この小説には、前編にあたる『天使の卵』がある。この小説を手にとって買う気になったときのことはぼんやりと覚えている。20代の頃で、仕事のことも人とのかかわりも全然うまく行かなくて、どうしていいかわからない状況だった。特に会社の女子社員からは嫌われまくっていた。小中学生のときにばい菌のように女子から嫌われていた私はそうでなくても女性と普通に話すことが苦手だった(もしかしたら自分の被害妄想が描かせた虚像だったのかもしれない)。そんな状況から人はあがいていろんな方向に行くと思う。幸い私が選んだのは犯罪ではなく、女性作家の小説を手に取ることだった。それが当時はもう文庫化されていた『天使の卵』だった。以来、村山由佳の小説はいろいろ読んできた。声にできない、割り切れない感情について丁寧に拾い上げた彼女の文章のおかげで、多分自分を敵視する(と私が思っていた)人間の気持ちを汲むことができるようになってきたと思う。その一方で彼女の文章は、割り切る側の人間、建前を振り回す人間には冷ややかで辛らつな側面もある。夏姫も『天使の卵』のなかでは、どちらかといえば割り切る側の存在だったようにみえる。だから『天使の梯子』で夏姫が主役となったとき、意外に思った。読んでみて納得した。夏姫も割り切れない気持ちを抱えていたことに作者が思い当たったのだと思う。実際そんな主旨のコメントをどこかで聞いたことがある。
 ちなみに『ダブルファンタジー』以後の村山由佳の作品は読んでいない。これはたまたまそうなのであり、深い意味はない。性的なことについてはその前の村山作品でも丹念に描かれた作品がいくつかあるので、性を前面に押し出した作品を彼女が描いても全然不思議には思わない。彼女の作品を読んでいると純愛小説と官能小説を区別するのがそもそもアホらしい気になってくる。こんな具合に私にとっては思い入れの深い小説なので、語りたいことはまだまだたくさんあるのだけれど、作品の感想は語りすぎないことが大事だと思う。『天使の卵』『天使の梯子』を手にとって読んでみる楽しみをこれ以上未読のひとから奪ってはいけない。

 村山由佳の小説『天使の梯子』で宮沢賢治の『告別』という詩を知り、本棚にあった宮沢賢治の詩集でその全体を確かめてみた。本棚に詩集がいっぱいあるわりには私の詩とのかかわり方なんてこの程度だったんだな、読んだはずなのにな、と思うとイヤになった。この詩で心に引っかかったのは冒頭に引用した部分だった。なんだか、自分の働き方、生き方について見抜かれたような気分になってしまった。最初に一読したときは、この詩の冒頭に登場した「バスの三連音」という言葉から、いまは楽器を弾かないから自分は関係ないと考えたり、同じ宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』のことをぼんやりと思い出してみたり、そんなふうにこの詩に集中することなく距離を置いていたのだと思う。ただ、楽器を少しやっていたことのある私にとってこの詩のような楽器の弾き手とその師匠の関係はわからなくもないのだった。再読してそこに思い至った私はあらためてこの詩にちゃんと向き合った。この詩には私を拒む何かがあった。だからこそずっと気になっていたのかもしれない。無邪気に空のパイプオルガンのイメージと戯れることを私に許さない何かがあった。頷ける、でも、私からは遠い。もう戻れない地点にこの詩はある。そんな感覚。これと同じものを茨木のり子の詩『汲む−Y・Yに−』に感じている。震える弱いアンテナはもう二度と手に入らないだろう。そんな感覚。
 『告別』は師匠が弟子に語りかけるかたちで詩が展開する。師匠はこの詩の最初で弟子のバスの三連音を褒め称えながらも、おまえの年ごろで同じ素質と力を持っている者は1万人のうち5人はいる、それらの人も5年の間に、生活に追われ、あるいは自らその力と素質をなくす、と厳しい言葉を続ける。そしておまえがその力と素質をなくすなら、おれはおまえをもう見ないと突き放す。その理由が冒頭の引用部分である。少し反発したい。食べるため、家族を守るために少しくらいの仕事をしてそれに腰かける生き方も、1万人に5人の素質をずっと保ち続けるためにそれ以外のすべてを犠牲にする生き方も、それぞれに侮蔑も受けるし窮乏に甘んじるものなのだと。侮蔑と窮乏の重みと、それにもかかわらず生み出す価値が、それぞれの生き方で異なるかもしれないが、どちらの生き方も「腰をかけている」のようなわかったような一言で片付けていいものではない。そもそも生き方に「多数」など存在しない。この世に存在するすべての仕事や生き方を2通りに括れるものではない。でもこの反発は的外れかもしれない。「腰をかけている」というのはそこで足を止めることであり、足を止めれば仕事は錆つく。わかる人にはそれがわかってしまう。このことは弟子の音楽に限ったことではない。この詩を「1万人に5人のおまえの素質を守るために世俗的な仕事を投げ出して、さびしさで音を作り、侮蔑や窮乏を噛んで歌え」というメッセージにとってしまえば私との接点はない。でもこのように解釈して、自分と関係がないと思ってよいものではないのかも知れない。師匠が予言し、批判したのは、足を止めて腰かけから動かない生き方なのかもしれない。それはそれで、立ち止まることが本当に必要な人を無視した叱咤のように思えるが、師匠とはときに理不尽なもの。まとまりがないけれど、師匠の視点で語られたこの詩から私が受ける印象は、反発と、それを乗り越える解釈との間を行ったり来たりしている。
 いい仕事をしようとして何をすればよいのか。師匠の予言は弟子の2通りの将来を描いていた。ひとつはおそらく弟子がその素質と力を失ってしまうだろうという悲しい予測、もうひとつは弟子がひとりの娘を思う気持ち、さびしさ、侮蔑や窮乏を音に変えてゆくという希望だ。希望はさらに、雲間から洩れた光をパイプオルガンに見立てて弟子がそれを力のかぎり弾くというイメージへと展開する。その希望の部分を人に感じさせるいい音、あるいはいい仕事の源泉は何だろうか。
 いったん『告別』と離れて『セロ弾きのゴーシュ』について考えてみる。ゴーシュがひとりで練習するだけでは彼はいい演奏はできなかった。猫、かっこう、狸、野鼠の親子がいなかったらきっと見違えるような変化は訪れなかっただろうと思う。いじけていないゴーシュは好きである。楽団の中の落ちこぼれであるゴーシュに対する憐憫はそこにはない。侮蔑に耐えて健気に音を紡ぐという、美化された、砂糖を入れすぎて台無しになったコーヒーのような物語とは無縁である。ゴーシュのサディストっぷりは辛辣この上ない。動物たちもそれぞれ好き勝手なことを言っている。それぞれの勝手が突き抜けてぶつかって、そんななかで磨かれたゴーシュの音が最終的に聴衆を魅了してしまう。もし弟子が師匠の希望の通りに1万人に5人の素質と力を磨き続け持ち続けるならば、しかも寂しさ、侮蔑、窮乏を受け入れてそれらを素晴らしい音に変えるのであれば、これくらいの太さが間違いなく必要だ。好き勝手なことをいう動物たちもまた必要だ。あんたは落ちこぼれだけど頑張りなよ。どんなに下手でも私たちがついているよ、などという嘘で固まった同情などそこにはない。自分の病気がそれでよくなるからゴーシュのセロを聴きにくる。でもおとなしくゴーシュの色に染まってしまわず、ゴーシュにあれこれ要求する。動物たちは自分が欲しいものをよく知っているのだ。太い弾き手、太い聴衆、何よりも両者ともに正直。こんな関係が音を磨く。
 これとは対照的かもしれないが、冒頭に引用したもうひとつの詩、茨木のり子の『汲む−Y・Yに−』についても考えてみる。この詩のタイトルに織り込まれたY・Yについては、『一本の茎の上に』という彼女のエッセイに書かれている。詮索したい方はそちらに当たってみるといいと思う。そのY・Yの言葉は、『告別』の師匠に劣らず厳しかった。「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」というのがその言葉だった。人を人とも思わなくなったとき、という言葉を自分以外の誰かのことだと思える人は羨ましい。私は堕落しきっている。でも、気弱な部分はある気がするから、堕落した地点から這い上がることくらいは許されるのだろうか。茨木のり子が同じように考えたかどうかは分からない。大人になることを、すれっからしになることと同じとみなす価値観をこの言葉によって転換して、気弱さも人に対する畏怖であり「震える弱いアンテナ」として、いい仕事の核となり得るのだと彼女は希望を見出した。うんと時間が経ってその記憶がこの詩に結実した。多分、人を人とも思わないことは、『告別』のなかの、少しぐらいの仕事に腰をかけていることと同じ意味なのだと思う。もっとできるのに、それ以上に行こうとしない。もっと分かり合えるはずなのに、それ以上の理解を拒絶してしまう。気弱なままでいいという希望に転化してしまう前にこの厳しさを見つめたほうがいい。そうでないと、気弱なまま咲き誇る薔薇のしんどさを実際に体験したとき、簡単に折れてしまうだろう。

 報酬の源泉は人にある。私はそう考えている。あるものが生きていくために必要だから人はそれを手に入れ、対価としてお金を払う(なかには略奪したりタダ乗りしたりする不届き者もいるが)。それを生み出す仕事は、誰かが生きていくために必要なものを作り出す行為なのだ。人という無限をどこまでも探究する。決してあきらめない。途中で立ち止まらない。決め付けてわかったようなことを言うなどもってのほか!おそらくどのような仕事でも、不断の探究が必要になる。「知っている」といって立ち止まるのでなく、「知る」ことをどこまでもやめない。そのためには「知らない」ことを潔く認める。そんな営みが必要になる。それは「真摯さ」という言葉の中味なのだと思う。いい仕事の核とはこれなのかもしれない。そう考えるとき、これらの詩が少しだけ私に近いような気がするのだ。音楽の素質と力に恵まれた弟子に向けた『告別』も、堕落の末とうに失った震える弱いアンテナについて語られた『汲む−Y・Yに−』も。粗忽者の私はよほど注意深く扱わなければならないが。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】いい仕事の核 Copyright 深水遊脚 2011-03-04 21:32:59
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