ヒューム「ベルグソンの芸術論」(5)
藤原 実

西脇順三郎は「詩的な美」とは何か、について次のように言います。



「その存在は一つの抽象的な、眼にみえない理論的な(譬えれば、原子形のようなもの)フォルムである。それは通常の経験の世界において、遠い関係に立つ二つのものを近く連結し、結合させ、また逆に近い関係に立つものを遠く分離させることである。だから超絶的美感を起させるフォルムはそうした関係のフォルムである」
        (「現代詩の意義」)


この「関係のフォルム」とはすなわち「新しいイメージ」のことです。


「ヒュームの説の如く、創造的努力というのは新しいイメージをつくることである。
…イメージの世界が美となる根本的の要素は、通常の経験の世界に於けるイメージの連結を破壊して、新しい連結を行なうことである。この新しい連結をもっているイメージの世界が詩に於ける美の中で最も重大なものであると思う」
        (「詩の感覚性」)


新しいイメージをつくることが詩の重要なハタラキであることを強調した先覚者として、ヒュームを評価する西脇ですが、無条件に礼賛しているわけではなく、ヒュームやその後継者とも言えるエリオットの詩学を、なまぬるいものとして不満も持っていたようです。


「ヒュームは詩に対してイメージの世界を主張はしているが、未だメタフォルのことを考えている。
…エリオットの詩は種々の詩人やその他の文学から種々の世界の断片をとってきて、それを新しく連結して新しいイメージの世界をつくろうとしたかなり進んだ詩であった。しかしそれは単に新しい世界にすぎなかった。出来るだけ遠いものを連結したことでないから、詩的な美ということが不幸にして欠けている」

「その理由は、メタフォルのために使用されている間は、イメージの連結に制限を受けることになる。すなわち普通の連想として最も遠い二つのイメージが連結されているにしても、メタフォルを目的とする場合は、それ等の間に相似性をもって連結される必要がある。それが連結に一つの制限を与えることになる」

「未だ表現というようなことを考えているのは昔の詩人芸術家のことのみを考えているからである。表現という意味にはその表現の対象を表現することの条件がある。即ちメタフォルをつくることである。ところが、今日の詩人は(或いは新しい画家も)最早メタフォルをつくることなどはせずに、新しいイメージの世界それ自身をつくることに純粋になっている」

「イメージの世界は最早、表現形態として使用しているのでない。その世界それ自身が詩作の対象である。意味という問題が起こらない。意味ということは表現形態が表象する対象のことであるから、この新しい詩には表現形態というものがなく、直接に対象がつくられている。
…我々は単にそのイメージの世界を感覚すればそれでよい。それで意味が不明であっても、イメージの世界が透明でありさえすればよい」
        (「詩の感覚性」)


このように何ものも象徴しない、思いがけない、無意味な、イメージそのものを感覚することが西脇の「モダニズム」でした。
当然、ここには荒地派が求めるような「思想性」も「批評」も「倫理」もなく、あったとしても、詩作の「材料」としての思想やモラルであって、それらは換骨奪胎され、融通無碍に組み合わされ、「新しい関係」というフォルムが形成されてこそ詩になる、というのが西脇の考えです。戦後の荒廃した世界での詩人の社会的役割を模索していた鮎川等がモダニズムを役に立たないものとしたのも、しかたのない面があります。が、西脇にすればそのように一見現実には無力な、社会の改善などには役に立たないからこそ、詩は最終的には人を救うのだ、という思いがあったでしょう。


ポエジイはすべての価値批判を超脱しているから人間の脳髄をよろこばせる。それというのは人間の苦悩の最大な原因は価値批判があるからである。栄誉と富、恥辱と貧乏とか、美と醜、善と悪、真と虚といったものはみな価値批判の結果としての心理である。
 ポエジイはこの事実によって人間の精神的な救済であろう。仏教もキリスト教もその真の意味ではそうしたポエジイであると思う。この点はポエジイの無限な効用であろう。
 ポエジイは人間の感じ得る最大な哀愁の美である。ただこの淋しい感性によってのみ一般の生物は「永遠」を幾分感じる可能性がある。しかしこれらはポエジイの目的ではなく単なる幸福な結果である。
 ポエジイの目的はポエジイである。

        (西脇順三郎「詩學」14:筑摩叢書)


由良君美の「回想の西脇順三郎」( http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/art/kaisou/vol3.html )によると英文学者の土居光知がある講演で西脇順三郎のエリオット理解に対して「不真面目」であると批判したという。
その内容は「西脇教授は、『荒地』をエリオットの、全くのふざけたものとして極上のもの、と言っておられる。これは違う。『荒地』はエリオットの、正しく、真剣な、現代批判として読まれねばならぬ。」といったものであったそうです。
土居を怒らせた---西脇による『荒地』翻訳の〈あとがき〉---のは次のような一節です。


「エリオット氏はこの詩に関しては近来稀れにみるparodyの詩人でもある。この点からみても、この詩が現代最大なシャレた詩であるということにもなる」


土居光知や鮎川信夫のようなマジメなひとたちにとっては、『荒地』の詩人は二十世紀の危機を一身に背負って苦悩する存在です。でも西脇順三郎にとっては、エリオットは機知と諧謔の天才的パロディスト、なのでした。

西脇にとって『荒地』はまず、「意識の流れ」の手法を大胆かつ広範に使用した最初の試みという点で最も尊敬されるべき記念碑的作品であり、「正しく、真剣な、現代批判」などというものは材料にすぎません。「意識の流れ」という枠組みを据えることによって「引用と聯想」を縦横無尽に作品に流し込むことができたのでした。


「エリオットの詩の美は一つの場面、一行の文句としての美ではなく、一つのオーケストラの構成美であって場面と場面との結合、思考と思考との結合において構成されているのである。
…遠いものゝ結合の面白味から生じた詩的美である。」

「近代ヨーロッパ社会の精神的瓦解の問題も含まれてはいるが、それはこの詩の直接の目的ではない。
…何か一つの思想をわれわれに語るのでなく、ただそうした組み合わせの効果として読者の感情と態度を統一し、われわれの意志を美的に解放するのである」
「パヴローヴァという有名なダンサーに、そのおどりの意味を説明してくれとたずねた人があった時、彼女は、それが言えるなら、おどれなかったと答えた。それと同じことがこの詩にも言えるだろう。この詩のもつ主な事実は単にこれは詩であるという事実にすぎない」

        (西脇順三郎「エリオット」:研究社出版)


『ノンセンスの領域』の著者、エリザベス・シューエルは、「詩的隠喩的な要素」を排除する、ことをナンセンス文学の条件のひとつとしてあげていますが、西脇順三郎の言うことをぼくの興味の向かう方向にずっと延長してゆくとモダニズムとナンセンスがむすびつきそうです。


「総合をめがける傾向は、一切御法度(タブー)とされる。知性における想像力、言語における詩的隠喩的な要素、また主題の上では美、豊穣、聖俗のあらゆる愛が締めだされる。何であれ結びつけるものは、ノンセンスの強敵なのである。万難を排して追放せねばならない。」

「『鏡の国のアリス』の「女王アリス」の章で白の女王が尋ねている。<1たす1たす1たす1たす1たす1たす1たす1たす1たす1はいくらになるかの>。アリスには答えられないが、それもそのはずである。総和がいくらかなど、まるで重要ではないのだ。重要なのは、1たす1……という風に組み立てていくことそれ自体なのである。これが即ちノンセンスの宇宙の組み立てではあるまいか」

        (エリザベス・シューエル「ノンセンスの領域」[訳]高山宏:河出書房新社)


ありとあらゆる不可思議なことが起こりうるが、そこに隠された意味などなく徹頭徹尾「文字通り」の世界、いっさいが「表面」だけで奥行きのない鏡の中の出来事のような世界---すなわち、ナンセンス・ヴァースの世界。
答えのないなぞなぞ、白紙のルールブックを持った厳格な審判員、シニフィエ無きシニフィアン、言語怪獣たちが跳梁跋扈する世界。

鮎川信夫が、現代の詩は「猫に胡弓を取り付けた玩具」であってはならない、としりぞけたまさしくその世界です。



Hey diddle diddle,
The cat and the fiddle
The cow jumped over the moon;
The little dog laughed
To see such sport,
And the dish ran away with the spoon.


へっこら、ひょっこら、へっこらしょ。
ねこが胡弓ひいた、
めうしがお月さまとびこえた、
こいぬがそれみてわらいだす、
お皿がおさじをおっかけた。
へっこら、ひょっこら、へっこらしょ。
   (「まざあ・ぐうす」[訳]北原白秋 )


鮎川は、深瀬基寛がエリオットの「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」のイメージの飛躍を評して「この表現には、行と行の間を前節と後節のあいだを、また客観的世界と創造的意志との間を繋ぐ接続詞というものがない。近代世界は接続詞のない世界である」と言ったことについて、次のように述べます。


「この『接続詞のない世界』という観念は、たしかに現代詩の一面をついたものです。隠喩の解りにくさも、イメジの腐蝕的、解体的傾向も、根本はこの相互関連性の欠如にあり、そうした現代文明の危機が詩人の鋭敏な感受性に屈折してくるためであると考えられます」
        (「現代詩作法」)



しかし、それは「現代文明の危機」などというよりは、エリオットがアリスの世界に近づいたからなのだ、というのがシューエルの意見なのです。


「『荒地』はエリオット氏が醇乎たるノンセンスに一番近いところでした仕事であって、『アリス』作品に、実にこれのみに比べらるべきものである。彼は危険な要素---神話、愛、詩、過去の美---をテーマの中にもちこんでいるけれども、それらをコントロールするのにノンセンスの定石とも言える手法をいろいろ徴用している。
してみるとこの詩の有名な断片化(fragmentation)も、現代世界に対する嘆きと解さるべきものではなく、これこそその材料を個別の単位に---赤の女王の口吻を借りるなら「1たす1たす1」に---分解し、ノンセンス向きに変えるノンセンス詩人一流の骨法なのである」
「詩全体を支えるためにキャロル的な典型的枠組みが利用されている。トランプとチェスである。人間関係というおよそノンセンス的ならざる危険な代物に代えて、数字たちとゲームの指し手があるばかりなのだ。ノンセンスのルールが必要な条件をつくりだす---知性が主題から保つべき距離、材料の分解、融けあわないイメージのパターンの操作。ノンセンスと同じように高度に知的なこの周到きわまるシステムの世界の中に、潜在的には危険そのものであるはずの材料さえ取りこまれてしかるべく所を得、あげく完成した作品はエリオット氏の傑作と称さるべき逸品である」
        (「ノンセンスの領域」)


あまりにもマジメすぎ、コトバを窒息させてしまった荒地派の詩人たちによって、いわゆる「戦後詩」とよばれるものは息も絶え絶えの状態になってしまった、というのがぼくの印象です。
ぼくが詩を書き始めた十代---むかしむかし三十年以上も前のことですが---のころは、まだまだ荒地派を中心に現代詩を語るような雰囲気があり、ぼくも彼らの詩を読んでいました。でも、今あらためて読もうとすると、非常にしんどい、というのが素直な感想なのです。
それは、内容が重いから、深刻だから読むのがつらい…というわけではないのです。読んでいてしらじらとなっていく感じ、その「悲劇ぶりっこ」ぶりにヘキエキしてしまうのでした。

ウィキペディアの「現代詩」の項目( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%A9%A9 2011/02/20現在)を見ると「現代詩=戦後詩」という記述になっており、荒地派がその筆頭にあげられています。戦前のモダニズムに関しては完全に黙殺されており、北園克衛や春山行夫はおろか西脇順三郎についてさえ一言も触れられていません。
たかがウィキペディア、しかも他にもつっこみどころが多々ありそうな記事---おそらく荒地派の洗礼を強く受けた世代のひとが主に書いたのでしょうか、コトバに対する荒地派的なマジメさと偏狭さに充ち満ちています---なのですが、ながらく書きかえられる様子もないところをみると、あまり強く異を唱えるひともいないのでしょう。そうすると現代詩って、だいたいこんなものだろう、とみんな思っているのでしょうか。


「法律への違反は論理的に法律の存在なしに成立しえない。さて、ノンセンスの言語はセンスの言語に(反面的に)支えられてしか成立しないという高橋の的確な指摘を、私たちはさらに逆転させてみるべきではないか。
 すなわち、私たちの日常言語は、実はノンセンス言語に(反面的に)支えられてはじめて成立しているのだ、と。潜在的ノンセンスこそセンスの必要条件である、と…」
「明治以来私たちの国をおおかた支配しつづけてきた、かぎりなく俗悪な健康をほこる模写説リアリズムの言語観に、ノンセンス言語を対置させてみる。そして、どちらが本当は狂気なのか、どちらが真に健全なのか、と考えてみよう。
 その上でさらに、実は私たちのすべてが少しずつ両棲類なのだという事実に気づいてみよう。あるいは、こう言いかえてもいい。ノンセンスの言語は、センスの言語を反面的に支えているばかりではない。鏡の向こうからしみ出して、センスの言語の中に深く滲透してもいるのだ。」
       (佐藤信夫「わざとらしさのレトリック」:講談社学術文庫)



われわれがコトバの手足を存分にのばし、その真の健全さをとりもどすためにも、「戦後詩」の書き手たちが生き残るのに性急なあまり、投げ棄ててきてしまったものを拾い集め、現代詩の歴史を「装われた悲劇」の歴史から「途方もない冗談」の歴史へと、書きかえるのをこころみる必要があるように思うのです。



言葉の病いは疎外である。一方、言葉の遊びは異化である。詩人のたくらみは疎外としての言葉の病理を異化の遊戯へと顛倒せしめることにあろう。分析が袋小路に陥ったところから、詩はつねにペガサスの翼を羽搏いて飛び立つのである。

        (種村季弘「ナンセンス詩人の肖像」:ちくま文庫)



[続く]



散文(批評随筆小説等) ヒューム「ベルグソンの芸術論」(5) Copyright 藤原 実 2011-02-20 18:03:43
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