美しいこと
はるな



向かいの屋根の瓦にはまだすこし雪が残っている。祖母の家から預かっている蘭の葉が黄ばみはじめた。髪の先だけを少し赤く染めて、わたしは座っている。
選ぶことがすごく苦手だった。どうやって選んできたのかがよくわからない。何も選んでこなかったのかもしれない。季節になでまわされて、記憶だけがだんだん埃をかぶっていくようだ。

春から明石に住むことに決めた。それは、わたしが選んで決めた。
大事なひとと住むのだ。ふたりで。

なんにもいらないと思っていた。幼くて、足も腕も細くて、目は飢えて、乾いて。たぶんほとんどのものを憎んでいた。自分のことはもっと憎んでいた。身体も、かたちも、意思も、意識も、ぜんぶだ。
それでも世界はかたちを変えた。幸せをおもった。ひとり残らずすべての人々が幸せに向かうべきだとおもった。憎しみは憎しみのままで、あたらしい幸せが訪れるべきだと思った。平等に。
今はすこし違う。わたしはわたしの手ではわずかなものしか守れない。そういうわずかな、手のひらに入るくらいの大事なものをぎゅっとして、たしかめていよう。それはいつか変わってしまうかもしれないし、摩耗してなくなっていくかもしれない。大事だと思えなくなるかもしれないし、捨ててしまうかもしれない。それでもいいのだ。いまここにあって大事なものを、惜しみなく愛する。そうと決めたら、うたがわず、ぎゅっとひきつれていよう。

美しいことはたくさんある。醜いこともたくさんある。
好きな人がたくさんいて、好きなこともたくさんある。
おいしいものがたべたいし、明るいところで笑いたい。
悲しい映画で泣きたいし、腹が立ったら怒鳴りたい。
投げ出したくなるし、抱きしめたくなる。
物事を決めつけなくていい。それから、うたがいを持たないこと。
頭とからだをいつもやわらかくして、好きな音楽を口に飾ろう。


一緒に生きていくひとができた。





散文(批評随筆小説等) 美しいこと Copyright はるな 2011-02-17 16:29:53
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