故 中川路良和 詩作品より
まどろむ海月

 以下、私の友人である故中川路良和君の処女作品集でもある『頭變木』所収の全詩篇です。
 初対面より間もないころ、人には見せたことがないのだが、と中高生時代に書き溜めた作品をなぜかひそかに読ませてくれたとき、彼は十九歳でした。わずかに方言も混ざって、その素朴で繊細で素直に表現された少年の心に、思わず涙したことを覚えています。
 久しく行方不明になったままでしたが、数年前に発見されたとき、それは放浪の果ての路上死という哀しい姿であったと聞きました。
 鬱になりそうな心を振り絞って再読し、何とか他の作品も発見できないかと手を尽くしてはみたのですが、どうやらあきらめざるを得ないらしいことも、やっと分かってきました。
 この場をお借りして、彼の作品を多くの人に一読していただくことになれば、生前からこの全作品についての処遇を任されていた私にとっても幸甚ですし、もって彼の冥福を信ずる結果にもなろうかと思います。
 今ここに一つ一つ彼の詩句を打ち込みながら、このナイーフな思春期の心の吐露と繊細な表現は、ついに私には果たしえなかったものであったし、ますます遠くなるばかりの昨今だなあと思うにつけても、私の中での輝きは増していくようです。








 ? 黙失


窓べのそばの大きなこずえの満ちたる葉のあいさから

白い花が
名も知らぬ花が散ってゆく


うつり変りの広い空間の果てに
あてもない淋しさを誰が知っているだろうか
幸福をどれほど求めていたか
どれほど愛を得たかったか
苦しみをどんな気持でおくってきたか

人は何を知っているだろう

僕は人にはたえられなかったことを
ただたえられなかったという
それだけであったろうか


夏の夕ぐれ
白い名も知らぬ花は
かすれたようなもつれたような音をたてて
散ってゆく







     ? 雨の


雨の降ったあとの
静かな空間には
深い人生が
チロチロと流れてゆく
去ってゆくものへの憂えの心が
雑草の水粒に目をやる

飲みのこした
水粒のついたグラスをすかして
目の前の 生きている人間を見ると
ボッーとかすんで
泣いているかと自分を思ったりする
グラスについた水粒は重く流れてゆく

きのうは雨が降った
今日も降るといい
今のうち降っておくとよい
そのうちやんでしまうのだから
自分も幼いとき
もっと心の雨を降らすべきだった
今じゃ
もう泣けないものだから

去ってゆくものへの憂いが
くすぶってくらい夜を
みつめさせる
泣けたらどんなにいいだろう
雨よ霧のように流れてふってこい
雨の降ってくるまえは
何が起こるかわからなくて
不安でしかたがないのだ

雨の降ったあとの
静かな夕方には
ある一人の人生が
チロチロと流れてゆく
今すぎようとしている
「時」を
わけもなくみつめている






     ? 寒い風が


異国のゴルゴダの丘から

寒い 寒い風が吹く

暗い夜の下で 一人

泣くことも

失なわれ

川の上に無常の影さえも

消えてゆく

一人

「人間」と名のつく者が

闇をたよりに泣くかもしれない

淋しい小道を歩きつづけ

夜汽車の通るふみきりに

凍てついたクルスを胸におしあて

うしろに点滅する光をふりかえる








     ? 雨に向って


霧のようにこまやかな刻が
さめざめと
降りつづく

うずもれて鉛色に重い空には
冷たい心は
もう宿ってはいない

木々の枝は
ぬれて自分でも気づかぬ内に
頭をもたげている
さめざめとした刻がいつしか路上に一すじ
悲しい声で流れてゆく

人は思い出したように
マネキンを一瞬ながめては
溜息をついて歩いてゆく

マネキンは何かいいたげだ
このさめざめとした
雨に向って








      ? 春のあつい日


春のあつい日
古い西洋館のへいを
歩いていると
ふと 自分の足音に気づいた

その漠とした時の流れ

(どうしてこんな大事なものを忘れていたのだろうか)

ぼうぼうとした野の原に
はえそめた緑の草をちぎると

サラ サラと時をこえて
砂つぶが風に吹かれてゆく

その緑の悲しみ

僕は青色い空間に
やすらぎを求めようとしたのか

赤いレンガのへいに
もたれながら


その漠とした時の流れ





















散文(批評随筆小説等) 故 中川路良和 詩作品より Copyright まどろむ海月 2011-02-14 22:56:40
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