比喩ってよくわかりませんけどだいだい次の二つに大別できると教えられています。
1.直喩 ・きみの脚は鹿のようにほそい
2.暗喩 ・きみの脚は鹿だ
この二つはよく目にする表現法です。
それと、比喩ではなくてストレートな物の言い方というものがある。
・きみの脚はほそい
そのものずばりですね。
大雑把にいって現代人はこの三つの言葉を使いまわしている。
ところで、比喩ってものを発生史的にみると
(古代文書などから想像できるらしいのですが)
どうも古代人ってのはストレートな物の言い方が出来なかったらしい。
きみの脚はほそい
という物の言い方ができなくて、大昔の人たちの会話はほとんどが暗喩であったという。
ふつうに考えると暗喩表現というのは高級で判りづらい。
それよりは直喩のほうがだれにでも理解できそうだし、
直喩よりはストレートな物言いのほうがもっと判りやすいと、
こうおもっている人がほとんどだとおもいます。
ところが、
古代人はそうじゃなくて、逆だった。
つまり言葉というのは時間軸でみると
ストレートな物の言い方→直喩→暗喩
という進化のしかたをしたのではなくて
暗喩→直喩→ストレートな物言い方
という風にだんだん進化してきたというのですね。
これまでわたしが考えていたのはストレートな表現がまず最初にあって、次に直喩が生まれ、
その後に暗喩のような高度な比喩が生まれた。
そう考えていたんですが、どうも、そうじゃないらしい。
種明かしするとこういう考え方を詩人で評論家の吉本隆明が講演で語っているわけです。
古代人の日常会話はすべて暗喩だったと。
だから大昔の人たちには、現代人のストレートな物言いは通じないはずだと。
「きみの目は細い」といってもちんぷんかんぷんで、「きみの目は象だ」といったほうが通じる。
そういってます。
ま、ここまでならば「へーえ。そうなんだ」という驚きで済ませられるのですが、
つぎに吉本は決定的に重要なことを語っているわけです。
それはつまりじゃあ暗喩の前にはどんな言葉が使われていたのかということなんですが、
おそらく「虚喩」としかいいようのないものが使われていたというのです。
「虚喩」ってのは、これは吉本の造語なんですが、
それはどういうことばなのかということをここで問題にしたいわけです。
これはまあ、非常に吉本らしい発想というか考え方なんですが、「虚喩」ってのはもちろん
暗喩よりも膨大な意味をたくわえた複雑な世界なわけですが、でも表現としては一見すると、
つまり現代人からみると、
ストレートな物言い
と同じなんです。
これはいかにも吉本らしい発見だし、見事な思想だと思うんですね。
つまり中長距離のトラックレースと同じで、
喩の進化が一回りして、最後尾と最前列が並んだ状態なんです。
ですから暗喩表現が出現する前の古代人は上の例でいうと
・きみの脚はほそい
という言い方をしていたというのですね。
でもこれじゃ現代のストレートな物言いとどう違うのかと反論したくもなりますが、
・きみの脚はほそい
と古代人の「きみの脚はほそい」とでは雲泥の隔たりがある。
これをもう少しわかりやすく説明すると、比喩の進化の過程というのは
ひとつの山を登ることに似ている。
とわたしは思うんです。
現代人の「ストレートな物言い」というのは山を登りきって降りてきた地平からのもので、
古代人の「虚喩」は山を登るまえの地平からのものであると。
同じ地平にあるものだけど、それが含むものはまるで違う。
そして「暗喩」「直喩」というのは山の頂上あたりでの物言いだと、
そう考えたらいいのじゃないかとおもいます。
(余談ですが、言葉の問題に限らず、吉本の発想法というのはなんであれ、このような発想が多いんですね。
たとえば信仰の問題。あるいは真理とか真実(ほんとうのこと)への洞察の問題、すべてこんな感じです。
どういうことかというと洞察や分析というのは登りつめるとあるポテンシャルに達するものです。
ふつうならそこで洞察や分析をやめる。
山の頂に旗を立てて眺望をながめる。
ところが吉本というひとは必ず、もう一歩先、もう一歩奥を考える。
だけど、それをやっちゃうと、頂上の先は降りてゆくしかないんでね。そして更に更に考えを深めてゆくと
とうとう最後には地上に降り立ってしまう。
吉本という人の発想法はそういう発想法です。
だから真理を究めた人ってのは普通の人と変わらないし、一見してわからない。山の頂上にいる人はだれが見ても
仙人にしかみえない。だけど、吉本の方法でいうと、山の頂で仙人然としている人というのはほんとうは
中途半端なひとなんだよってことです)
さて、では、現代使われている「ストレートな物言い」のように見えてじつは太古の、
原始の人が使っていたと思われる「虚喩」が、現代でも見出せるものでしょうか。
これが結構あるんですね。
とくに不特定多数の大勢の人を相手にする職業の人たちのことばにときどき見られる。
吉本隆明は『聖書』のなかで「奇跡」について語られているところは、これは「虚喩」だといってます。
荒れた海に向かって海よ静まれとキリストが祈ると海が静かになった、というマルコ伝の語る奇跡は、
これは実際にあったことでもなければ、また、いわゆる暗喩でもない。
これはそのままそのとおり「虚喩」として受け取れると。
宗教家だけではなく多くの不特定多数の人を相手にする職業として政治家という人種もいる。
そういう人というのは無意識に「虚喩」を発する。
日本の政治家のなかでも「虚喩」を無意識に使ったのは小泉元首相ではないかとわたしはおもいます。
有名なところとしては
・郵政民営化
・抵抗勢力
・感動した!
..........etc
これなんか「虚喩」のさいたるものでしょう。
小泉は「郵政を民営化すべし、そうしなければ日本はおしまいだ」と言ったのではなかった。
いや、現代的なストレートな物言いとしてはそう言ったのでしょうが「虚喩」としては、
まるきり違う、もっと膨大ななにかを大衆に語りかけていたのだし、
大衆の非常に未開な部分がそれに呼応したと考えられます。
郵政民営化の本質や中身を大衆がちゃんと理解していたかどうかなんて問題外です。
だから政治家と思想家の対談なんてまったくかみ合わない。
この正月に政治家菅直人と社会学者宮台真司の対談がニコニコ動画であったけど、宮台は政治家の発する
無意識の「虚喩」が理解できない。
わたしからみれば宮台は小学生が虚勢を張っているようにしかみえないのですが、本人は菅が
メタ言語の欠片も理解できないことに苦笑して自分のほうが偉いと思い込んでいる。
だけど、ことばという観点、
比喩という観点からみれば宮台はまったくことばを理解できない人なんだなということがわかる。
宮台は「きょうは政治について本質的なことをお聞きしたい」と語りかけ、菅をメタ言語の領域に連れ出そうとする。
ところが菅は八十歳を越えた母親が家を出て国会周辺を散歩しながら銀杏を拾ってきた話をする。
その銀杏を正月のおせちに使うんですよとかなんとか家庭の雑事を述べる。
宮台はそんな些事に聞く耳をもたない。はやく、いわゆる政治哲学論にもっていきたくて焦る。
ところが菅はまったくそれに応じない。
わたしは宮台ってつくづくバカな学者だなと思いました。
菅はニコ動をみている大衆を意識して、だれにでも理解できる暗喩を使っていた。ところが宮台はその暗喩を理解しようとせず
そこに広大な菅直人的世界への入り口が開かれていることに気づかず、「ストレートな物言い」の極限である
メタ言語で応じようとする。
勝敗はあきらかだった。こやつ組みしやすしと菅から見下されて、宮台は対談のあと菅から料亭へのご招待を受けたというから
笑ってしまった。
ひるがえって、詩について考えてみると高度なメタファーを駆使した難解で難渋な現代詩は大衆から
そっぽを向かれ、そろそろ限界にさしかかっている。
現代詩的な暗喩というのはなにか高尚で次元の高い表現をめざしているものだとみなさん思われるでしょうけど、
じつは太古のストレートな物言い(虚喩)への憧憬なんです。
だけどそれはどこまでも憧憬であって、憧憬はいくらそれを煮詰めてもそこへは行き着かない。
そこで、ある人はこういう。
「もう、やめたぁ〜。おれ、もう現代詩なんか書かねえ。日記を書く」
最終的には日記を書くように詩を書ければそれが理想なんです。
みながそれを求めているわけです。(たぶん)
だけど、その、詩を「日記のように書く」ということは「日記のように書くこと」じゃないのですよ。(笑)
メタ言語にどっぷり漬かってしまった現代人はいくら頭がよくても、そこが理解できない。
あたりまえに日記を書いて、これがおれの詩だといったってそれはストレートな物言いでしかない。
楽をしてみんなにおのれを承認させたいという願望だけが突出した甘えなんです。
いや、これは自戒していってるんです。
でも、わたしだってクソ詩を書きますけど、ちゃんと「虚喩」への試みなんかやってるんです。
最近投稿した「あこがれ」のなかで恋人たちがカモメをみて
あ。カモメ
と語るところ。
これを「虚喩」にしたくて書いたものがあの詩のような散文なんです。
この散文にポイントを下さった三名の方はそこになにかを感じ取ってくださったのかもしれないと
非常にうれしい。
ですが、もともとあの詩とこの論評は、トップ10の藍沢コウさんの詩にきついコメントを書き込んだわたしの
本意をお伝えしておきたかったからのものです。
いつも思いつきできつい批判をしているのではなく、わたしの小言は、いつだってそれなりに懸命に考えてのことだってこと、
わかっていただきたくて。
「虚喩」についてはまだまだ山のように語りたいことがあるのですがこの辺で。
【参考資料】
吉本隆明『喩としての聖書ーマルコ伝』
http://www.1101.com/yoshimototakaaki/marco/index.html
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