「名」馬列伝(19) フジヤマケンザン
角田寿星

ものすごく頭のいい馬だった、と聞く。
スパルタで有名だった厩舎の調教をしっかりこなすだけでなく、インターバル、クールダウンまで、調教助手の指示に従って粛々と行ったというのだから、只者ではない。だからこそ550kgにならんとする巨体でありながら、高齢になっても一線で活躍を続けられたのだろうし、あれだけの頻繁な遠征にも耐えることができたのだろう。
芝1800mのスペシャリストだったが、こうした一定の距離で良績を発揮したのも、彼自身の頭の良さの為でもあったのではないかと、筆者は考える。きっと、ペース配分や勝負どころなど、長年の競争生活の中で、彼なりに掴んできたものがあったのではないだろうか、と。ただ、馬の記憶力はそんなに良くないらしく、3日前のことを覚えていればかなり頭がいい、とも聞いたことがある。

とはいえども、適距離が判明するまでは試行錯誤の連続だった。嵐山S2着から臨んだ菊花賞で、あわやの3着と予想外の好走をみせる。重厚な(当時では時代遅れの)血統も相まって、当時はステイヤーと思われていた。が、どうも長距離はダメ。巨体のクセに斤量にも弱く、ハンデ戦のローカル重賞も勝ち切れない。スピード決着の多い芝G1戦線では惨敗続き。
とうとう今度は初ダート、大井の帝王賞にまで出走してきた。なんと1番人気だったが、砂をかぶってやる気を失くし、早くも1コーナーくらいで先頭集団からずるずる後退し、怒涛のシンガリ負け。応援していたこっちが恥ずかしくなるくらいのとんでもない負け方で、当然最初で最後のダート戦となった。

ただその前後から、中距離戦で良績をあげるようになり、6歳の夏競馬で久々の勝利。そしてその年の冬、彼はなんと香港への遠征を敢行する。しかも4着。おお、戦えるじゃん、と結果を知った時、筆者は思わず声に出して叫んだことを思い出す。2回目の香港遠征、彼は優勝候補の一角だったが、地元馬のマークに会い10着敗戦。
そして7歳冬、得意の芝1800mでタイキブリザードを張り倒し、勢いをつけて3度目の香港遠征。僚馬のドージマムテキ、タニノクリエイトも一緒だった。レース前日、彼らは沙田競馬場で脚馴らしをしていたが、すっかりリラックスしていた彼は突然コースの芝をもぐもぐ食べ始めたという。遠征に強かった彼らしいエピソードである。

結果は皆さんも御存知のとおりである。
香港国際カップ、芝1800m、香港G1、国際G2、レコードで1着。
ハクチカラ以来、36年ぶりの海外グレードレース勝ち。
日本人騎手と日本調教馬のコンビでの勝利は、史上初であった。

宝塚記念、国内G1で久々の掲示板入りを果たした後に故障で引退を余儀なくされ、国内でのG1制覇は夢と消えた彼であったが、香港でのこの勝利は、記録にも記憶にも残るものであった。いや、それよりも、最後の直線勝負で接戦になると、いつも泡を食ったようにしてじわじわ伸びてくる彼の大きな顔が、今も懐かしく思い出される。
種牡馬生活ではほとんど産駒を残せず、馬主のトラブルで思わぬ災難を受けたものの、有志たちの基金によって無事に余生を送っていると聞く。


フジヤマケンザン  1988.4.17.生
          38戦12勝(中央34戦11勝、地方1戦0勝、海外3戦1勝)
          主な勝鞍:香港国際C(国際G2)
               中山記念、金鯱賞(以上G2)、
               中日新聞杯、七夕賞(以上G3)
               菊花賞3着


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(19) フジヤマケンザン Copyright 角田寿星 2011-01-02 20:29:37
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