ねこちゃんパップ
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 ねこちゃんパップなら最近はスーパーでも売っている。
 パップとは貼布の訛りで、首に巻いて寝るとふわふわと暖かく、肩こり
のひどい人や冬の夜に効果絶大である。ねこちゃんパップを巻くと思念も
ほぐれてぐっすり眠れ、不眠症の人だけでなくエコノミー・クラスでの海
外渡航にもよろしいのだ。電子レンジで温めて繰り返し使え、保温効果は
8時間前後持続する。
 若かりし某・ジャガーはホームパーティの余興に活き猫をオーヴンへ投
げ込んだと、昔ミュージック・ライフだかロッキング・オンだかで読んだ
ことがある。が、これは寝そべる猫の形をしたぬいぐるみの温貼布であっ
て、温めるのは人間の悪虐ではなく付属の蓄熱剤である。因みに外出先で
携帯の際は使いすてカイロで代用するのだ。

 もちろん、夏の寝冷え予防や腹痛の時にはお腹の上に乗せるがいい。
寝返りを打っても面ファスナーで落ちないし、景観的にも腹巻に勝るのだ
から、実利とファンシーの一体化がフェラーリやフランク・ミューラーな
ど薄らわびしい虚栄心のみで表現される大人文化の貧困を、まだ夢にも知
らぬお年頃の女子達にはうってつけである。無論、本当の猫でないから圧
死させる懸念もない。
 そんなわけで、2個目3個目と買い足す人もいる。独居の茶の間でTV
と向き合う老婦人は、背中から腰にかけてねこちゃんを横向き連続貼りし
てガメラのようだし、自転車に子供と食品を満載した奥さんは、ねこちゃ
んを胸元に留めて夕暮れの街をひた走る。冷えは万病の元、家計の敵なの
だ。冷房の効いたオフィスでは首に巻き、膝にも乗せて執務に励むOLの
姿も今や珍しくない。ウケ狙いの営業課長などは、禿頭に鎮座させた忘年
会の泥酔写真を定期入れに常備している。道理で職場が寒い筈である。

 自身いつでも気持よさそうに寝てばかりいる猫の、その柔軟な身体内に
漲っているぬるま湯の、春のお日様的アルファ波によって日々和み、脳み
そも溶けんばかりに癒されている一人の飼主により発案された、このねこ
ちゃんパップは実によく出来ていて、丸めた背中の延長には結構な尻尾も
十全な長さで付いており、首絞めには短いが弄ぶには絶好のぷらぷら加減
であって、めくればミッフィーの口みたいなお尻の穴まで模られてある。
本来ならば穴の配列は雌が−と―、雄ならば∞まであってまことにめでた
い景色なのだが、生産コストと性同一性障害の増加を鑑みればジェンダー
の省略はいたしかたない。
 とは言え、やはり化学繊維では本物の、ミンクふぜいや絹ヴェルヴェッ
トさえ凌ぐ緻密な毛並の再現はとても叶わず、とりわけ耳の後ろのにこ毛
の、天国の第1歩とも言うべき感触はチンチラによっても模倣は不可能で
あり、本当の猫がいれば随意に、又は拝み倒せば高貴なお顔や有難いお腹
に頬ずりさせてもらえるので本来は必要ない筈だ。いかんせん野生のエル
ザとはサイズ違いで枕にするわけにはいかないし、よほどの偉物猫でもな
ければ、ほんの一時にせよ肩に載せたり首に巻いたりされるのは不安であ
って、防御と抗議の意向をその小さな爪に込めるものだから、おおよそは
猫を飼っていてもやっぱりねこちゃんパップは必需品であろう。

 かくて1頭飼いの猫は年中ねこちゃんパップと折り重なるようにして眠
り、軍鶏のパスカルくんも陸ガメの萬年堂くんも庇護を求めるが如くねこ
ちゃんパップに寄り添い、ぬいぐるみの類にはつい狼藉を働きがちな犬
も、チワワやダックスはまるで頬杖でもつくようにねこちゃんパップに顎
を預けて飼い主を目で追うのである。やむにやまれぬ退屈と腹いせとの混
淆によってありとあらゆる布製品、革製品、木製品、合成樹脂を噛み砕き
引き裂いてしまうレトリーバーの桃吉くんにはやっぱり通用しなかったに
せよ。
 しかしながらよんどころない諸事情によりペットを飼えぬ人間さんは、
鄙びたドテラ姿でねこちゃんパップを首に巻き、その尻尾を愛おしみつつ
今宵も百?先生の絶唱をひもとき涙にかき暮れるのだ。現存のさる謹厳な
大先生さえも、書斎探訪者に応接する時以外はねこちゃんパップを手放せ
ない由である。ゆくりなく脳を経巡る思索の一方で、やはり滞りは否めぬ
老いの体の血の巡りとて、肩に置かれた思慮深い腹の暖は頼もしい。更に
劣化ゴムにも似た老人の乾皮には、しかし新陳代謝に於いて対極にある赤
ん坊にも匹敵する脆弱さがある為に、カイロや湯たんぽの直情は必ずしも
適さない。しかるに嗚呼、猫で低温火傷のためし誰にあらん。また恋しさ
に合わせれば途端にじっとり汗ばむ人肌の鬱陶しさともかけ離れた、この
柔軟毛衣の心地をば何にか喩えん。 

 一体に文学者の書斎という、紙魚と埃のエベレストにあってじじいの項
という、加齢臭のチョモランマ絶頂とも言うべき難所に毎日登攀を強いら
れるねこちゃんの身を慮った夫人が洗濯でもしようものなら、
「わしの美也子ちゃんに何をするか。あの匂いでないと筆が乗らないのだ
ぞ。それを銀座のホステスみたいにしおってからに。ああ、毛並の悪さを
ひた隠す厚化粧とお追笑を思わせるあざとい香料で、あどけない美也子ち
ゃんを染めるとは! 自然あるままを好まぬ俗物根性、余計な事しかせぬ
不届き者、汝の名は女。いや女ですらない、けだし糟糠とは名ばかりの粗
忽者、否、嫌がらせばかりの因業婆が」
 と、憤激冷めやらぬ様子で机の周りを徘徊すること3日であったとい
う。
 しかし文化勲章授賞者夫人として、今や井上八千代ばりに銀鼠の丹後ち
りめんをしゃっきり着こなす夫人も負けてはいない。
「あら。3日にあげず通っていらしった貴方が銀座をお嫌いとは存じませ
んでした。右から左のお原稿料で、お困りになったのは口紅をべたべた付
けてご帰還の貴方の方でしたか。ご自分ひとりがお偉いのだとお思いでし
たら、とんだ見識というものですよ。貴方の筆が滑ろうが折れようが、私
が不潔を好みません。第一ねこちゃんには体を綺麗にする権利がありま
す。自然あるままの猫の生態をご覧なさい、野良ちゃんだって身繕いを忘
れる日はありませんよ。あのアクロバチックな丹念には頭が下がるじゃあ
りませんか。ウルトラCの衛生観念ですよ! 東京オリンピックの時は、
目尻を下げてチャフラスカを讃仰なさっていたご自分をお忘れですか。全
く、この家で不潔なのは貴方ひとりで沢山です」

 かくて上天気には、手洗い洗剤でまったり洗い上げられた、ねこちゃん
パップがおのがじし家々の軒場にぶら下がっているのである。


散文(批評随筆小説等) ねこちゃんパップ Copyright salco 2010-12-28 22:53:48
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