とっとと落選したい公募応募らいふ。
小池房枝

すみません、この文章を投稿した後で普段は読まないほうまで募集条件についてのみ見直ししてみた処、未発表作品に限るがネットや同人誌は含めない、だったり、他の応募との重複も版権が作者にある場合には可、等々がありました。
 月間公募ガイド、という雑誌をご存知でしょうか。電子メディアとしてもあるようですがまずは紙媒体、自治体や企業がやってる各種標語や川柳・俳句から小説・小論文までの色々文学賞やキャラクターデザインや曲や写真等々の公募の情報誌です。早く落ちたい、というからには当選続きかと思われるやもしれませんが、始めて数ヶ月、今のところ全落ち状態です。
 雑誌の存在自体は以前から知っていましたが、人生色々。この秋、賞金ではなく暇つぶしの必要に迫られ初めて購入して以来、ネガ、ポジ、両面、実に楽しませてもらいました。特にまず最初の一冊。例えば、コハクチョウの初飛来日当てクイズ。正解者(抽選で一名様)には賞品毛がに二杯。毛がに。コハクチョウと毛がに。世の中ではこういうことが行われているのかと、大笑いしてしまいました。
 防火標語なのに伊万里焼×万円相当って豪華だけど困るぞ、環境川柳か何かでエコバッグって趣旨には合っているけど慎まし過ぎるよ、あ、電子辞書欲しい、応募者全員に絵葉書っていいな、等々、賞品がまず面白かったです。賞品にしても賞金にしても、昨今お金と物とは溢れかえっているのだなぁと妙な感心をしつつ、パソコンから応募できるものはせっせと応募。毛がに二杯は早速はずしました。
 さて、自分は絵心も歌心も写真心もないので自然と目は言葉関連に向かいます。何かの名前付けやキャッチフレーズ作り、各種文芸、詩とか短歌って芸だったんですね。小説もエッセイも長いのは根気がないので駄目。詩も、詩集一冊分ぐらいの分量をという募集などはとても無理。フォーラムにはいつの間にか百編余りも貯まっていますが未発表作品に限るというのが通例。時折ここのプロフィール欄でお見かけする○○賞○次予選通過とか、××賞受賞乃至は入選とか、小説とイラストと曲もかいてます等々に対する畏敬の念を新たにしつつページをめくり、そういえば、××へおくる手紙、というパターンもしばしば目にしました。車内広告なんかで見かけるああいうのってこんな風にも集められてるんだと認識を新たにした次第。求められているものは、ひとことで括ってしまうとしたなら人間愛?ごめんなさい私それパス。
 自分には出来ないなぁと思うものが多々ある一方で、雷についての俳句や、妖怪川柳や、これって私のためですかっと見た瞬間胸が高鳴るような募集もままあり、そういったものはまず起きてる間中と寝しなに色々考えるのが楽しい。HPを見るのも資料になりそうな文献を読むのも楽しい。書いてみるのも推敲してみるのも応募専用フォームで送信ボタンを押す瞬間も葉書に住所を書いて切手を貼ってポストに投函しに行くのも楽しい。発表を楽しみに待つのも待ち遠しい。どうせきっとまた落選さとは思っても、締め切られてもいない募集の結果待ちでわじわじしてしまうのも可笑しい。
 ネット慣れとでもいうのか、ポイントやコメントや返信や☆が来るにしても来ないにしても何もないことをも含めて即日反応があって当然になってしまっているんですね。気持ちにすっかり堪え性がなくなってしまってる。瞬時のリアクション、それこそがネットの特性でもあり、とても有用なことではあるのですが。
 さてさて実際そうそう当たるものではなく、いやアンタ宝くじじゃないんだから、と友人には言われましたが、これなら楽天の懸賞市場に延々応募していた一時期のほうが物ならばはるかに貰えていたなと思いつつ、落選したという通知もまたわざわざ来るものでなく、HPに発表された入選作品の数々を見てふーんと思うつまんなさも楽しい。そっか、やっぱり優秀作は違うなぁと感心したり、ほほう、こんなのがいいんだ、じゃぁ私は落選でいいもんねーと「あの葡萄は酸っぱい」したり、選者に対してしみじみと、よっくわかりましたアナタはワタクシを落選させましたですねとか、この賞品欲しかったなぁとか。
 原稿用紙一枚分の小さなエッセイで図書カード千円分をもらった以外、今のところ全部落ちてます。悲しいです。発表は来年、というものもこれから沢山あるのですが、寧ろそっかこれから沢山落ちるのかという実にネガティブな側に気持ちが今は振れていまして、がっくり来ている最中なのも楽しくはないですけど自分で自分に笑ってしまいます。むかーしに履歴書を書いてはバイトやパートの面接に行って不採用をくらうこと二十件ばかりも繰り返していた時のような気持ち。そんなにワタシは世の中に要らないかと、そんな暗澹たる気分です。必要とされても困りますが。とはいえ使われ道の一つや二つぐらいはあってくれてもいいんじゃないかと。
 それに、千円については、もしも、もしも三千円もらえていたら買いたい本があったのです。いやしかしまず公募ガイド自体が五百八十円もしますし、ネットから応募できない募集には葉書代、切手代、原稿用紙代。投句料という言葉も初めて知りました。ものは試しと現金書留で一つだけやってみましたが、届いたかどうか、受理されてるかどうか。
 再発見だったのは、私はやっぱり言葉は好きなんだなってことです。言葉で遊ぶのが楽しい。言葉と遊ぶのが楽しい。公募ガイドが紙の雑誌だというのは大きな利点でした。記事を眺めやりながら思いつくものをその瞬間瞬間に幾らでも書き込んでおける。そのままネタ帳にできる。わざわざ図書館に取り寄せてまで読む諸書も自分にとっての思いがけない読書を広げるきっかけになりましたし、何より十数年ぶりか数十年ぶりかで手にした原稿用紙。
 原稿用紙に、下手は下手なりに、こまこまと字を埋めて行く作業は、こう、なんというか、仕事してるぞって気分になれて、一枚であれ、二枚であれ、物を作っている実感、幸福感とでもいえるようなものがありました。作家諸氏が大作を脱稿したときのやったーという達成感を遠く遠く垣間見ることが出来たような、そんな心持ちさえ覚えました。
 ただ、葉書も原稿用紙もボールペンで書きますから、間違えたら書き直し。一字ぐらいならホワイトでも、二箇所も間違えたら修正液だらけなのは自分がいやですし、パソコンで打ってるときのように無限の推敲はできません。裏紙をホチキスで閉じた何でもノートから原稿用紙に荒く書き抜き手を入れ下書きを作り清書の段階で尚、ひとは書き損じをするものなのです。最後の最後でやっぱり別の語句に差し替えたくなったり、私だけかもしれませんが。モニター上で好きなだけ直した上で向こうの指定仕様に打ち出せればいいのですが普段、パソコンの上でもメモ帳しか使って/使えていないので。
 そして、何であれ原稿が手元にあれば気力体力と相談しつつ書き直すまでですが一度送ってしまったらオシマイ。後からああすれば良かったこうすれば良かった、あ、固有名詞のカタカナ間違えたっ、と気付いても(ひとつやっちゃいましたん)打つ手なし。まかり間違って万が一にも入選してしまったらHPなり作品集なりに載る前に訳を話して辞退しなければなりません。誤表記が理由ってすっごく恥ずかしいと思います。取り消しさえもしてもらえなかったらもっと恥ずかしい。まぁ、そうそう入選できるものでなし、心配ないとは思うのですが。
 フォーラムは投稿した後から幾らでも修正がきくので、言葉に対して自分では神経を張り詰めているつもりでも(詩を書くときってそうですよね)それでも、一字一句作品全体に対してまだまだ甘いことに気付かされました。漢和辞典や国語辞典も大活躍。見知ってはいたけど自分で使うのは初めての言葉や、今でも読むのと変換とはできるけど手では書けなくなってしまっていた漢字たち。
 と、斯様に雑誌の値段分どころか値段以上に酸いも甘いも楽んだ公募ガイド。連載記事等も面白く興味深くまた役に立つものでしたし、昔懐かしい「詩とメルヘン」の消息、季刊「詩とファンタジー」になって復活していたのが知れたのも嬉しいことでした。抒情が大事、抒情も大事と、某氏は当時から何に対抗していたものか。さてしかし、一方で困ったことも起きました。出し惜しみです。募集は基本、自作未発表作品。募集ごとに違うのでしょうが、概ね一度フォーラムなり何処かなりに投稿しちゃった「作品」は出せないしばり。ネットや同人誌等も含めて未発表であること、と明記されているものは見かけましたが、その反対を言っているものは見なかった気がします*1
 暮らしの中で、俳句や短歌の卵を見つけて、普段なら萬草庵スレッドやながしそうめんスレッドに書き込むものを公募に送れそうなものは出し惜しみするという自分。公募優先です。わずかな望みとはいえもし選ばれたなら賞品と賞金がありますから。ネットには落選してからゆっくり投稿させてもらえばいいのです。また、時間をおくとやはり直したい処、変えたい部分が出てくるもので、そういう意味でもしばらく寝かせてから此方に出せるのはかえって有難いことでした。前後にも書きましたが、現代詩フォーラムは投稿した後でも何度でも作品、手直し出来るシステムですから。
 作品、では、更にここで問題です。どこからどこまでが「作品」でしょうか。此処で私は「題名だけの詩」や「短歌」や「俳句」や「詩」のようなことを沢山しているわけですが、それらを生かしてまた一つ別の作品を作ったとして、OKなのかどうか。これは限りなくケースバイケース、グレーゾーンありまくりの話になると思います。ネットに沢山投稿しているひとほど公募に応募しにくくなる、とでもいうのか、一回一回どんどん新作を書けば/書ければいいんですけれどもね。
 また、私が私の既発表作品を下敷きに新作したところで新作とみなすかどうかだけが焦点になりますが、ネットにハンドルネームで発表されてあるものを、もし仮に、必要に迫られた場合、どちらにしても自分の作品だということをどうやって証明すればいいのでしょうか。万が一にも賞金百万円の瀬戸際とでもなれば管理人氏にお願いしてどこのどのパソコンから送信されているかぐらいまでは見てもらえるかも知れませんが、それだってそれだけのことになりましょう。現代詩フォーラムに「著作権の管理は自分で」とあったのにはこういう側面も含まれていたのかと考えさせられたことでした。でもまぁロトで一億円当たったらという心配をするようなもので当分はまるっと杞憂です。
 入賞した後、作品の著作権が主催者に来るのか応募者のままなのかも、前者とばかりは限らないようでした。法的にはもしかすると宣言したもの勝ちってことばかりではないのかもしれません。きっと色々あるんだろうな。落選しかしてないので分かりませんが。
 さて、出し惜しみを経てここでやっとタイトルの「早く落ちたい公募ガイド」につながるのですが、楽しんで苦労して自分的にはうん、できたね!という俳句や短歌や詩を、下書き袋にしまい込んだままにしてしまうのは悲しいわけです。あらためてカテゴリー別投稿欄なりスレッドなりに置かせて欲しい。はずれならはずれでいいからさっさとはっきりさせて。○月○旬発表予定で流石に一ヶ月も経てばあーやっぱり落ちてたかと思いますが、入選作を決定したなら決定した、通知も済ませたと、この時代それぐらいはどこかHPに載せておいて欲しい。
 企業などはHPを見に来させること自体大きな目的の一つらしくその辺りのフォローもしっかりしているようですが、自治体?主催の何やかやは見に行くHP自体がしばしば迷宮状態。住んでいるひとには十分なものなのかもしれませんが、せめて入賞作、過去作の検索、閲覧は万人に可能なシステムにしておいてはくれまいかと。
 でも、ご親切にもいちいち落選通知もらったらきっと悲しいでしょうね。発表したから見に来てねのメールなのでああ当選通知じゃないな今度も落ちてたか、だったり、淡い期待のもと郵便受けを覗きに行っては今日もピザと公共料金のチラシだけだったか、ぐらいの今が丁度良いのかもしれません。
 審査員の顔ぶれを見てどきっとすることもありました。とあるテーマに沿った掌編の募集で、私は小説は書けたことも書いたこともないのですがそれでも、ああ、このひとに見てもらえるというなら応募したい、そんなひとが審査員に入っていたことがあって、こういう風にも動機付けされるものかと驚きました。締め切りはまだですが、そうそう書き始められるものでもなく、高嶺の花のままに終わりそうですが高嶺の花に自分が振り向いてもらるなら、それは決して入賞したいとか認められたいとかそんな意味ではなくて、自分がそっと触れることができたなら、どんなにか喜びだろうと思います。
 ええと、これはきっと、フォーラムで、ポイントは来なくても、普段あーいいなと思ってるひとから思いがけず読んでるよ読んだよと聞けたときのような気持ち。とでも説明したら通じるでしょうか。あー、応募してみたいなぁ。書けたらなぁ。
 最後。落選続きの私は出し惜しみに続いて別のワザにも気が付きました。いやはやなんとも、使いまわし、です。どうも交通安全標語とか火の用心川柳とかは各地の何々協会やら関連企業やらで四六時中募集があるようで、あそこが駄目ならここに応募すればいいのよと、パンがないならお菓子よ状態です。が、俳句などの場合、審査員が同じ人じゃないかどうかは気をつけたほうがいいかもしれません。もっとも何百、何千、何万句の中にそもそも類句がないわけがなく、それでも尚、光るものが残され、光らず網にも引っかからず落ちたものの一々を先様が覚えているとは思えませんが。ですから「再応募 作品きちんと 落ちてから」にすることは単に応募する側のマナーの問題なのかもしれませんが。
 以上、徒然なるままに公募応募らいふの由無し事を書き連ねましたが、それではいつの日か、作者コメント欄に「とうとう一つ合格しました!」と書ける日が来ることを祈念しつつ筆を、もといキーボードを置きたいと思います。


*1 すみません、この文章を投稿した後で普段は読まないほうまで募集条件についてのみ見直ししてみた処、未発表作品に限るがネットや同人誌は含めない、だったり、他の応募との重複も版権が作者にある場合には可、等々がありました。



散文(批評随筆小説等) とっとと落選したい公募応募らいふ。 Copyright 小池房枝 2010-12-19 19:50:01
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