音のこと
はるな


花が割れるおとを知っているだろうか。
わたしのよく知っているのは、凍った薔薇が割れるおとだ。
虫の羽の振動のようにか細く、澄んだ一瞬の音。

音に執着した時期があった。色やにおいやかたちに執着するよりも前に、まず音に執着する時期があった。もともと耳が良いほうではない。たぶんだからこそ。
いろいろな音を聞き、執着は、どんどん細く、かよわい音のほうへかたむいた。たとえば雨だれ、衣擦れ、葉が枯れて落ちるときの音、朝方とおくで鳥がとびたつ音、隣のへやでだれかが寝返りをうつ音。
割れるおとは、最初はおおきな音の分類だった。砕け割れて飛び散るおと。
割れるおとがおおきな音ばかりでないとやっと気付くのは、冬のはじめの日で、その朝わたしは霜を踏んだ。それから、うすく氷の張った水たまり。とても静かな朝で、薄暗く、たしか日曜日か祝日かのどちらかだった。寝静まった朝。つめたい空気と、はく息の白。夜の名残りがあちこちに散らばって、街灯はまだついていて。そして氷を踏んだ。

それから割れるものをさがした。ガラスや陶器より、もっとうすくて軽いもの。バレンタインの高価いチョコレートよりももっとうすくて水をたたえた何か。花は格好だった。庭に咲いているわずかな花たちはすべて冷凍庫へ行った。
かならず、深夜か早朝(もう朝といってもいいくらいの深夜か、まだ夜といってもいいくらいの早朝)に、わたしはそれをおこなった。耳もとへ凍った花を持っていき、握りつぶした。よく凍ったものほど、かりんといってくだけた。ささやかな冷気と、体温で溶けてゆくばらばらの花びら。
薔薇がいちばんだった。うすい花びらがきちんと一枚ずつ凍るさまは、わたしを歓喜させた。棘ののこる茎を切ってしまって、花のあたまだけを凍らせた薔薇を掌にのせていると、赤ん坊の首を切り取ったようなきもちになった。そして、握れば、きちんと砕ける薔薇のかしこさ。しゃらしゃらとぜいたくな音のする際に、夜は朝へと寝返りをうつ。それを愉しんだ。

うちの庭の薔薇は、そう長くはもたなかったので、しだいにわたしは花屋へいった。商店街にある、ちいさな、むかしからある(でもほとんどそこで花を買ったことはない)花屋で。老夫婦といっていいくらい年をとった夫婦が経営していて、いつでもうすら寒く、冷蔵庫のなかの花は場違いな明るさだった。なぜかレジの上には造花があって、埃をかぶっていた。
たぶん流行らない花屋なのだろう、三回もいけば顔を覚えられて、会話をするようになった。だいたいいつも薔薇だけを4,5本買った。勧められればその色を。紫や黄色や赤や白。

薔薇を割らなくなってもうしばらく経つし、そもそも音に執着しなくなった。執着を手放すことは、ほとんどの場合において良い傾向だと思う。すくなくとも飾られずに割られる薔薇は減った。
花屋の夫婦はいまでもしらない。わたしが花を買っていたのは、飾るためではないこと。あの夫婦だけじゃない。母も、父も、恋人も、友人も、たぶんだれも知らない。わたしが、夜と朝との合間に起きだして、ただひたすら薔薇の割れる音を探していたことを。そう思うと、すこしぞっとして、耳の奥にしゃらんというぜいたくな音を探してしまう。



散文(批評随筆小説等) 音のこと Copyright はるな 2010-11-28 16:41:35
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