反映
豊島ケイトウ

魚の小骨のように胸腔にナイフが引っかかっております。
子どもの時分からずっと引っかかっているのです。

(おかしいですか?
 たいして悩みでもないのですが、
 やみつきだなんてとんでもない。
 その反面、狼藉を働く月明かりによく輝くのです)

我が家は大変見晴らしのよい高台にありました。
分限者とまではいえませんでしたが女中がおりましたし、一日亀やらセカイ系イグアナやら精霊鰐やら高級蛇やらを飼ってもいました。

長屋は学生のための住み込み部屋となっており、最短では三日、最長では四年間、実にいろいろな若者がやってきましたが、ワタクシの記憶に正しく残っている者は一人――ナイフを舐める男のみでございます。

(ああ、思い出すだけでひすひすする。
 どうしてこんなにもひすひすするのか。
 ひすひすするたびに胸腔のナイフが柄を濡らす。
 じんわりと濡らしやがてしとどになる)

その男は眼球を持たず、眼窩の奥にきざはしがありました、見とれているうちにどこか切ないせんない場所に導かれそうな気がいたしたものです。
一見、怜悧で心根も悪くない感じを受けるのですが、ナイフですね、刃渡りの長いナイフがよろしくないわけでございます。

ワタクシの部屋はちょうど長屋に面しておりまして、カーテンのすきまからいくらでも男の内緒を垣間見ることができました――男は始終、ナイフを舐めておりました。
舐め方は実に豊富で、プロレタリア文学的に舐めたりディオニソス的に舐めたり芙蓉のように舐めたりマント狒々のように舐めたり華僑のように舐めたり角度を模索しながら舐めたり金魚をねめつけながら舐めたり花を愛でながら舐めたり逆立ちで自慰を行いながら舐めたり文机の下で舐めたり雨蛙の耳もとで舐めたり首を吊って舐めたり引き戸に挟まれたまま舐めたり足枷をはめたまま舐めたり、しました。

けれども男が一番熱心に舐めるのは、母屋の情事を覗き見ているときでした。

父は何ごとに対しても閉塞を嫌ったので、行為中ですね、ずっと雪見障子の小障子が上げられておりました――外部から丸見えだったのです。
母の太腿は青白く発光しておりまして、その発光はナイフを舐めつづける男の顔に詩をもたらしたものです。
(ああ、男の眼窩に立ち上るきざはしが、
 一段一段よくできたきざはしが、
 母の発光に照らされて、
 ワタクシは、
 もう、
 ナイフを舐めるのをやめられなかった。

 ああどこもかしこも中有に似た人いきれです)

父は双子の片割れなのでときどき兄と入れかわって兄と母の情事を見守りました。
どこか惚けたところのある兄はまさに野良犬のような野蛮な腰使いでしたが、母は大層すばらしい光を宿しました――狼藉を働く月明かりと混ざり合ってまるで深海に眠る姫君のようでした。

男はやがてナイフをゆっくりゆっくり呑み込んでいきました。

口から赤い石楠花を間断なく吐瀉しつづけるのを、ワタクシはナイフを舐めながら、じいぃっと眺めておりましたところ、きざはしのやつがね、きざはしのやつに誘われるままにね、うっかりナイフを呑み込んでしまったのです。

……なので今も小骨のように胸腔に、引っかかっているってわけです。


自由詩 反映 Copyright 豊島ケイトウ 2010-11-01 13:35:16
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