今夜の月は綺麗だね
豊島ケイトウ
僕の彼女は半月に一度、まるで発作を起こしたかのように暴走する。これは別に大げさな言いまわしなどではなく、「そのとき」が来ると、彼女は急に地面にうずくまり、体をふるわせながら獣の咆哮を響かせるのだ。目は狂気じみて、四足歩行の態勢になる。僕が声をかけても低いうなり声しか返ってこない。そしてそのまま彼女は外に飛び出し、目についた人々や建物を容赦なく襲撃するのである。理由は本人にもわからないらしい。ただ、僕はそれを覚醒と呼んでいる。
彼女の覚醒時には、暴走をくい止めるべく陸軍特殊部隊が出動する。しかし、対テロやハイジャック、人質救出などの任務を遂行するスペシャリストを以てしても、彼女が何一つ破壊しなかった試しはない。その間、僕は何をしているかというと、家でアップルパイを作っている。彼女は、アップルパイにうるさい。少しでも林檎が焦げていたりシナモンパウダーの量が気にくわなかったりすると、僕は彼女の説教を夜明けまで浴びつづけるはめになる。
この街で彼女を知らぬ者はいない。昔から彼女の暴走を知っている人もいるし、ネット上にはファンサイトだってある。彼女の覚醒について研究している大学も存在するらしい。僕はこの街に来てまだ半年ほどしか経っていないけれど、彼女の彼氏だということもあって、外出すると色んな人から声をかけてもらえる。以前は引っ込み思案で誰ともうまくしゃべられなかった僕が、今や進んであいさつできるようになった。きっかけがあれば変われるものなのだ。
そして今日の夜、彼女はいつにもまして疲れはてた様子で帰ってきた。アップルパイを食べるとすぐベッドに倒れ込んだ。声をかけても返事がない。心配になってそばに寄ると、彼女は僕の腕を引き寄せて、僕の鎖骨のあたりに顔を沈めた。覚醒した日はいつも決まって興奮がつづくのに、どういうわけかこの日は憂鬱そうだった。
しばらくして僕はベランダに出ようと提案した。彼女はゆるゆると起き上がった。
夜空には弓張り月が鋭い光をまとっていた。少し赤味がかった、怪しげな光だ。それを見て、彼女は「今夜の月は綺麗だね」とつぶやいた。僕はうなずいた。
その翌日、彼女は轢死した。覚醒していないときは至って普通の女の子だった。僕は何日にもわたってアップルパイを作りつづけ、そして食べつづけた。
やがて彼女に破壊された街がどんどん復旧していった。僕もいつか忘れてしまうのだろうか、などと思いながらも、僕はやっぱりアップルパイを食べつづけるしかなかった。