バベル
リンネ

 見知らぬ集合住宅の最上階である。なぜか全くの無音が続いている。どれだけ高い場所にあるのだろう。建物のまわりには、さっぱり何も見えない。目が乾燥していて、視界がかすれる。左右には一つずつドアがある。どうやら階段を挟んで二棟の建物が繋がっている構造らしい。それにしても空が近い。生ぬるい風が吹いたり止んだりしていて、私にはそれが空の息遣いのように感じた。そう考えると、実に気持ちが悪い。しだいにその息遣いが荒くなってくる。うっすらと、あえぐ音も聞こえてきた。汗ばんだ体臭が感じられ、今にも何かが襲い掛かってきそうな具合である。私は逃げるように、よろよろと階段を下りはじめた。からだがセロファンのように軽く、なかなか下に進まない。
 ある階の踊り場で、そっと、手すり越しに下を覗いてみる。建物の外では、数人の男女が上を見上げて立ちつくしている。遥か下にいるはずなのに、なぜか顔の表情まで良く見える。彼らはこちらに気づくと、大げさに手を振りはじめた。私はどうやら、彼らに待たれているらしかった。「マタレテイル」と私は言ってみた。何か違和感のあるものが、咽喉のあたりから外に浮かび上がるようで、心地よかった。

――マタレテイル」「マタレテイル」「マタレテイル」
 また、空が息を吹きかけてきて、私はしかたなく階段を下りはじめた。下りながらも、「マタレテイル」をつぶやき続けている――
 
 気がつけば、なんと、私は階段を上っていた。普通なら、大いに混乱するところであるが、私はやけに分かりよく、その状況に納得していた。どうやらこの建物は、蜃気楼のような、まやかしの建造物らしい。それは入り口も出口もない、ふさがった迷路である。マタレテイル、マタレテイル。それならば、だまされるがままになってやろうと思う。どうせならこのまま動揺せずに上っていくのもいいかもしれない。そうして最上階に行き着いたところ、何食わぬ顔でまわれ右をし、再び下りはじめるのもいい。
 だが、どうしてなかなか、最上階に着かない。下りたら最後、もうあそこには戻れないということだろうか。しかし一方で、空との距離は不快なまでに狭まっている。思ったよりも複雑な構造である。そういうことなら、あえてここで一眠りでもしようかと思う。きっと建物にしてみたら予想外の行動だろう。もしかしたら、愛想を尽かして私を外に放り出すかもしれない。マタレテイル、マタレテイル。寝転がってみると、床が妙に柔らかい。女のクチビルのような感触だった。

 ……マタレテイル、マタレテイル。まただ。空からあの息が吹いてきた。その息の、何と臭いこと! 空はますます近くに迫ってきている。飛び起きた私は、息を止めながら、すがるように近くのインターホンを押した。すると、待っていたようにドアが開く。急いで中に逃げ込む。玄関に、見覚えのある木彫りの人形が置いてあった。顔が削れてなくなっているが、もとからそうだったのだろうか。母親のような人のうしろ姿が、奥の部屋に消えていく。ここは、ひょっとすると私の家かもしれない。しかしこれも、結局は建物のつくった幻だろう。
 ドン、ドン、ドンと、家のドアをたたく音が聞こえる。覗き穴から外を見てみると、先ほどの男女数人が、じっとこちらを覗き返している。彼らは一体だれなのだろう。彼らもまた、この建物にとらわれてしまった人間なのだろうか。もしくは。
 私は急に、笑いはじめている。これも幻なのだろうか。私は本当は、待たれていないのだろうか。急いで家の中に駆け込む。懐かしい食卓があった。
 「オマエハマタレテイル、マタレテイル。」私の家族のような人たちが、嬉しそうにそう言いながら、私を迎えた。玄関ではドアを叩く音が発作のように続いている。
 だが、それ以外は全くの、全くの無音である。
 つまり、空の息も、すっかり聞こえなくなってしまった。
 






自由詩 バベル Copyright リンネ 2010-10-24 16:19:55
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