黄色い車〜〜〜みかんで魚を釣る
ヨルノテガム








先日、知り合いの絵の展覧会の展示を手伝ったのですけど 僕は遅れていってほぼ絵は壁に掛かっていたのですけど どうも入った瞬間に居心地が悪く 展示の順番や呼吸が よろしくなかったので しばらくしてから 色々絵を掛け替えるように提案して その理由を説明しながら なんとか少しづつ 絵の並びに 間やテンポが出てきて 鑑賞者が見やすい、気持ちいい空間を作ることが出来ました 最終的にはその作者のやりたいようにやればいいのですが 鑑賞者の立場に立って見る、広い視野で創作物を眺めるという視点を持つようなことはナカナカ一般の人では機会が無いと思うので 僕なりにですけど お役に立てたような気がしました
全体を見渡すこと 作品の間を変えたりリズムを作ること 一つ一つの作品の特徴を見抜くこと これらは 絵だけではなく 詩を通しても 培われてきたように思えます 作品の中で どういう構成を配置するか どういう間を文章で形作るか 簡単な韻を踏んでみたり 、。*などの記号を使ってみたり テーマを俯瞰的にでも捉えるような題名をつけてみたり。あらゆる方法とバランスはあるもので その試行錯誤した過程を踏んでいるか踏んでいないか というのは 長い目で見るとよくわかるものです
僕もココで他者の詩を眺めるときは 構成などに感心することもあれば(上級者) 天然で言葉を紡ぐのが上手な人(ほとんどが書き始めた人)に感心すること と二つぐらいに分かれますが その感じや違いはなんとなくですがわかります あと どういう主題や目線で言葉を紡ぐのか というのはいつも気にはなっていますね 自分の中でアンテナに引っ掛かるというか興味や好奇心の針が反応する機会は減っていますが それがある環境というのは大切にしていきたい と思っています









前回 北野作品「Dolls」における 違和感 について述べましたが これも作品における間やテンポを紡ぎ出す要素 と言ってもよいかと思います 私はキム・ギドク監督の作品やホン・サンス監督の作品と 北野作品を比べてみた時 この要素的な描き方が北野作では ややぎこちないかな 恣意的かな と思います つまり キタノ色というか監督の意志が映画に反映されすぎているため キタノワールドに鑑賞者は踏み込んでいかなくてはならない引力を強く感じてしまう気がしています その強引な引力こそが魅力とも言ってもいいのですが・・・

男と女が赤い紐で身体を繋いで 景色を歩いていくシーン。 その次の話に繋がる身体障害者の電動車イス男とその連れが 彼らとすれ違います そのある日に 車イス男と連れは みかんで魚を釣る 釣り竿を川に垂れて みかんで魚が釣れるわけないだろう! と言って竿をそのままに立ち去ります
女が夜に見る悪夢に その釣り竿はうっすら浮かび上がり 釣れないはずの何かは 闇夜に何かを釣っていてしきりに引いています この一見幻想的な場面は 女の夢の中で花ひらき 夏祭りの夜店の風車が数々回ったり 色とりどりのお面が並んでその一つがふんどし姿で立っていたりと 悪夢の序章を形作る仕掛けとなっています ココには鑑賞者が その関連づけの記憶を背負わされていて 男と女の歩行と電動車イス男とその連れの動向を知っている鑑賞者に 道具や物の連想や前のシーンとの間を推測させるという手法で 映画を進めていくのです このやり方は 見る人に関連を補充させる効果 逆に言えば キタノ映画特有の省略 とも言えるでしょう キタノ映画は殺害場面に銃声だけを響かせ次の別のシーンへ移るというような省略を多々使います







創作者であれば 作品を作っていて ノッテくるような 霊感もしくはインスピレーションが湧くようなこと、引いて言えば「天来の着想」といった何か降りてくる瞬間に何度も出会いたいと思うことがあるだろう キタノ作においても 監督は意図してそういう場面を 感じているような創り、またはそういう瞬間を画面に撮りたいという意志を見ていて感じることがある 何かそういう瞬間こそを撮るための 長いおまじないを延々とやっているようなフシも見られたりする 二人の役者が歩く場面に 不意に鳥が入ってきたり 手前に鳩が歩いたりするのも 何かしらのリアリティーというか 画面の構図に三点目のリアルが加わることをこの監督は許している
 私は何度か「Dolls」を見ていて久石譲の音楽と共に 映画と創作者の距離が近いなぁと印象を持つに至った それは効果として良い面と悪い面両方あるが 映画の冒頭の文楽のシーンのように 人形を操る人間が まさに 映画を操るキタノと久石譲 のようにも見えてくるようになった それは キム・ギドクやホン・サンスの映画を見る前にはそう思わなかったことだ キタノの発想する映画やカットは刺激的で美しい 久石譲の音楽も鋭利に映る しかし「作者の考えだけではないという感じ」 こういう神の視点のような 祝福のような瞬間が あってもイイナと思ってみたりする

こういうことを考えるときフェデリコ・フェリーニを思い浮かべる フェリーニの描く苦悩や場面は何ら今の現代と変わらぬものであり そのことにまず興味と興奮を覚える
人間、人間性、の描き方や表し方 そういうものを私は暗に求めているのかもしれない







「みかんで魚を釣る」 こういうわけのわからないモノ、日常にふと考えもせずに在る無用のもの、これらを意識し発想し着目し、展開しまた発想し人間の一瞬の果かなさ、花の一時咲くような、もみじの散るような、雪に足跡をつけるような、時間。歩行。を描く
これらは想像力の素晴らしさだと思うし、ニ話目のお弁当を持って待つ女とヤクザの親分の何十年ぶりの再会、お弁当を開けて あぁ とため息を漏らす三橋達也の演技にはゾクッとした それまでのヤクザの親分という一人他の役者とは違った風格というかテンション、緊張感を漂わせているのは 難しい役どころと思われるが何度も見ていて素晴らしいと思った
この二人の存在自体 まるで人形のように ありもしない、無用な、お伽話のようであり、キタノはそれでも それだからこそ 夢を見つづけそれを提示していく。以降のTAKESHIS’(2005)や監督・ばんざい!(2007)は夢やギャグのシチュエーションが明確だ

くだらないもの、意味のないもの、わけのわからないもの、無駄なもの、これらはとてつもなく無限の力であり、われわれはそれらにこそ価値と意味を想像し創造したがる者だ













つづく














散文(批評随筆小説等) 黄色い車〜〜〜みかんで魚を釣る Copyright ヨルノテガム 2010-10-23 04:19:40
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