そして冬
瀬崎 虎彦

 うれしいことも、うれしくないことも一緒くたにして、あなたは僕を困らせる。
 ラベンダーの香りのする部屋で、コウイチがそういった。その香りは彼の部屋を訪れたほかの女の香水の香り。これはわたしの男ですよ、と強く主張していた。だからあたしはさらに困り果てる。コウイチが困るので、あたしが困るのだ。
 未練を水に溶いたら、たぶんそのような色彩になるだろう、という薄い水色がマンションの八階の小さな窓から覗いている。ここが世界の果てだといっても誰も信じない。ただその色彩を除いては。けれど暗い雲が窓枠の端からもくもくとわいてきて、次第に全てを埋め尽くしてしまう。傘を持ってきてよかった。どうせタクシーに乗るんだけれど。
 コウイチを独り占めしたいとは、もはや思わない。素敵な男だと思っていたのはわずかの間だった。だから、あたしたちはこれからどんどん距離を感じて、いつしか別れるのだということを実感したのは、はじめて体をあわせたときだった。そして今別れるときが訪れた。それは前もって決められていたこと、少なくとも、あたしの中でははじめからそうであることだったので、感傷は、悲しみはそれほど多くない。
 もう、二度と会えませんか。
 コウイチは未練たらしい。今、初めて分かった。もう会えないから、お別れなのに。コウイチの部屋にあるものたちを改めて眺める。観葉植物はコウイチよりもあたしにとって近しい存在であった。その緑とこうして分かれ、その緑が世話もされずに枯れ果てていくことは、あたしの責任の埒外にある。まさか鉢植えを貰って帰るわけにも行かない。分かれはいつも場所に記憶を残して、その残像が悲しみを運んでくるので、あたしは何も思い出さないようにしようとする。
 ハンドバッグを手に取り、あたしは玄関へ向かう。コウイチは追ってこなかった。彼も本当は分かっていて、心のどこかで安心している。ブルガリのオムニアの香りにも飽いた頃だったろう。玄関のドアが閉まる。エレベーターを呼ぶ。エレベーターのドアが開き、閉じる。マンションのエントランスの床は、出入りする人々の靴底が運び込んだ雨のしずくで濡れていた。冬が来る。


散文(批評随筆小説等) そして冬 Copyright 瀬崎 虎彦 2010-10-23 00:37:33
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