ゆるやかな生活
豊島ケイトウ
辞職願には「一身上の都合」とだけつつがなく書いたものの、本当の理由は「生きることによる倦怠感」であった。生きる、という本質的な目的がわたしの中で、ピントの合わない眼鏡をかけているように、急にぼやけてきたのだ。
帰宅すると、祐輔が「亜季ちゃん、おかえりー」といいながら、わたしのもとに走り寄ってきた。
「どこ行ってたのー?」
「パチンコ」
わたしはそっけなく答え、三万円と引き換えに手に入れたマルボロを一本、口にくわえて火をつける。
「煙草、くちゃい、くちゃい」
祐輔は換気扇のひもを引っ張り、そして料理のつづきに戻った。
しばらくして今夜のメニューが食卓に並んだ。黒焦げの目玉焼き。お粥みたいにゆるゆるのご飯。乱切りの野菜にマヨネーズとケチャップをかけただけのサラダ。げんなりとするわたしをよそに、祐輔は平気そうにがっついている。わたしは胸の内でため息をつくしかない。
三カ月前、わたしは二十年間勤めた出版社を、辞めた。同時にわたしは生活を捨てた。その日その日、勝手気ままに過ごすようになった。するとどうだろうか、祐輔が自ら進んで家事をするようになったのだ。とはいっても、料理は失敗の連続だし、洗濯物をベランダから落とすわ、あげくに癇癪を起こして部屋を散らかしてしまうわ――慣れないことにいろいろと悪戦苦闘し、それは現在もつづいている。わたしのかわりに働こうとしているのは判るのだが、今後も祐輔が家事を完璧に覚えることはないということを、わたしはよく知っている。だから、余計につらかった。
「背中、流してあげるー」
といいながら、祐輔が素っ裸で浴室に入ってきた。
いやよ、とわたしはタオルで胸を隠して抗議する。
「ぼくのこと嫌いなの?」
「違う。勝手に入ってきたことがいやなの」
「どうして? 前は毎日いっしょに入ってたじゃーん」
「今は、違うの」
「違わないよ。だってぼく、今でも亜季ちゃんのこと、だーいすきっ!」
わたしは思わず湯船に顔を沈めて涙をごまかす。
「亜季ちゃんはもう、がんばらなくても、いいからね」
祐輔が浴槽の縁越しに抱きついてくる。
「ぼく、これからどんどん仕事を覚えていくよ」
「……ありがとう」
わたしは素直に答えた。涙をこらえきれない。祐輔を見ていると、生きることの意味があいまいになる――そう思って自分を慰めていたが、実のところ、わたしは甘えていただけだ。目をそらしていただけなのだ。祐輔は逃げずにしっかりと現実と向き合い、わたしのことも見てくれているというのに。
わたしは振り返り、祐輔の、少し生え際の薄くなったおでこに、キスをした。
若年性アルツハイマー病――それが、わたしの夫の病名である。