「Dolls」の黄色い車〜〜〜
ヨルノテガム









さわ子の友人:「さわ子 自殺したよ」
  男   :「死んだ?」
さわ子の友人:「助かった。命だけは。でも頭おかしくなっちゃって
        わたしの顔見てもわかんないんだもん 死んだも同じよ」
  男   :「今何処にいるの?」
さわ子の友人:「病院。」
  男   :「だから何処の・・」
さわ子の友人:「あんたが行ったって わかんないわよ」


社長の娘との結婚式場の裏口に さわ子の友人が来て男に文句を言う場面。
これがなんだか とても早口で あらすじのようにテキパキとセリフは進んでいき 男は結婚式場を抜け出し黄色い車に乗って病院へ向かう・・・・
文楽のシーンのあとの場面で 「つながり乞食」と呼ばれる二人(男とさわ子)。 その後にそう呼ばれることになる理由を探るような展開で 話は遡る。

映画や創作表現に 個性や独自性をもたらすものは 間 であったり テンポであったりするだろう 音楽や文章にノッテいけたり共感したり 鑑賞者に入り込ませる方法は 様々な仕掛けや間合いであって パズルのようなもの、心に入り込んでくるパズルピ―スのようなものかもしれない そのパズルピースは共感というよりも 違和感 といった方がよいケースもある
上のセリフで最初に感じたことは 整然とし過ぎているという違和感だった 自殺したよ という言葉にはもう死亡の意味合いが8割9割あると思うに 死んだ? という特段驚きでもない死の確認作業のような言葉が続いていく そして 助かった 命だけは と未遂に終わったことに繋がる展開が次の場面でわかるようになっていく







結婚式で花嫁を奪いにくるダスティン・ホフマンの映画があったけど こっちは 花婿が社会や家族から 縁を切るように自殺未遂した許婚の元へ 劇的に去っていく場面であり 日本らしい自由でない、板ばさみの地点からやっと物語は始まり出すのが 皮肉でもあり、黄色い車は飛び出していくのである  黄色い というのは 幸福の黄色いハンカチ という映画が前にあったように そういう意味でも 現代的にどう位置付けるか というのも新たな視点を紡ぎ出す間合いを見て取れるのかもしれない
黄色い色 というのは 実際 汚れの目立つ色、他の色と混ざったら原型をとどめない色だから扱うのが難しく そのまま使うことが多いほうの色だと思う ゴッホのひまわり、レモン色、信号で言えば注意色、元気な陽気な色、堅固な意志のようなものも感じられる、そして実際現実的に 黄色い車って あまり日本で走ってないのであるw 軽自動車ぐらいならあるけど この映画の黄色い車は大きめで ちょっとなんだかカッコエエのであるw この場面は緊張感のあるシーンなのだが どうももうひとつ悲観的でもない。むしろ黄色はやはり希望の色なのかもしれず、日本的なしがらみから抜け出す自由がとぐろを巻いて始まっていくようである

後に 男と女は日本の四季を歩き過ぎていく旅に出る 春は桜色、夏は緑、秋は紅葉の赤、そして白銀の雪の冬へと場面は変わる
この車の黄色い色というのは何に繋がっていくのかと思い返せば 光 なのかもしれない








北野監督の映画を見てて感じるのは デフォルメ である
この「Dolls」という映画は そもそも文楽の人形を扱ったりして 登場人物もそれぞれに熱をもった人形としての視点を持たされている 半人間半人形 といったところであろうか 北野監督はテーマに沿った 省略やデフォルメを得意として「あの夏、いちばん静かな海」においても 言葉を極力排した演出を取り大いに注目された
最も顕著なシーンとして「その男、凶暴につき」の 歩道橋ですれ違う場面が挙げられる 刑事がまだ見ぬ犯人を追って夜の歩道橋ですれ違うが しばらく長く歩き進んだところで 憑かれたように引き返す場面である 鑑賞者はココで或るテンションを目の当たりにし 映画の登場人物の緊張感を怖いくらいに 感じ取るように仕向けられる

「表現を自分のものとする」ということと、また客観的に「ナニを見止めるか」という視点の両方によって 創作者は考え続け研究しつづけることだろう
色んな映画や表現はあまたあるが その作者らしく作る ということや個性的であることは 困難で ありきたりかそうでないかは 一瞬の場面では光ったりするけれど 全編を通してはダメだったりと 一作品の中で充満する個性的な雰囲気や匂いというのは容易なことではない 


この作品において 何が魅力かと言えば 世間や常識(鑑賞者側)と対極にある独特の世界を「違和感とズレ」の中で表現し歩み進めていくことであった

・文楽の人形で表される世界観(うまく言葉で言い表し難い世界)
・決まったセリフのように進む(リアリティーはあるが)無駄の無い会話
・黄色い車の外で 吹く玩具で遊ぶ女のカットが 映像的にズレていたりする
・男が 女と繋ぐ赤い紐が 細いのから太いものへと変わっていく
・つながり乞食 と言われるほど 汚らしくもない二人の格好。そして季節ごとに綺麗な衣装に変わっていく設定 心の目と現実の目は違うような意味合い
・秋と冬の境目が映像的に表現されている もみじから雪へ
・最後の木に引っ掛かった二人の朝日をバックにしたシーンは書き割りのようだった



人形とは現実感の無い世界を生きているものなのだろう われわれはそこからフィードバックし身近な現実世界と比べ 違和感とズレの意味を知る探る旅へと 出かけることとなる







ちょっと 映画の内容を分析するような感じが つづいちゃったので ちょっと(←二回目w)休憩w 先日、知的障害者のガイドヘルパーをしてて駅の地下ショッピングモールを歩いていたんですけど オシャレに着飾ったまだ若い女性が 知的障害者の立ち止まる癖や突然動き出したりする動きに対して とても怖がってキモチワルイみたいな反応をしてスレ違って行ったんですね 僕はその嫌がる若い女性の か弱い様子がナンダか滑稽に見えまして 自分もつい先日までは そうだったかもしれないのですが その立ち止まる癖や突然動き出す癖は慣れた仲間内ではいつもの愛嬌ある仕草として受け入れられていたので 何か この女性と僕らのズレ って大きいなと その過剰な反応に 溝というか 「知る」ということは大切なことなんだなぁ と今更ながらに思いました 自分が知っていることを相手は知らない まして もしかしたら人間と人形くらいに 思いや心の中のことは分かり合えないものなのじゃないかしら と思ったりします

そういう意味では 「Dolls」のラストでお互いが言葉も無しに同じシーンを思い描けたというのは果かなくも貴重な美しさというか、人間の稀なシーンなのかもしれません







つづく

















散文(批評随筆小説等) 「Dolls」の黄色い車〜〜〜 Copyright ヨルノテガム 2010-10-15 07:00:23
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