●●●●の回帰
リンネ







 ようやく着いたかと安心していたが、よくよく見れば全く別の場所にいるようなのである。四階建ての白い建物が横一列に四棟並んでいる、というところは同じなのだが、果たしてこんなにツヤのある壁だっただろうか。屋根の色もなんとなく鮮やか過ぎて、印象派画家の描いた絵をそのまま立体化したような見た目である。
 どうもオカシイ。よく知っている気もするし、まるで見覚えがない気もする。キツネに抓まれるというのはこういう気分なのだろうか。たしかに同じ団地内であることは確かなようだが、もう一度辺りを見回してみても、どうにも違和感を感じる。あんな公園はあったろうか。小さな子が砂場で立っているが、あれは見覚えのない子だ。
 だが、その子の着ていた黄色いTシャツが妙に気になる。しばらく心なしに見つめていると、次第にTシャツの輪郭がぼぉっと崩れていく。やがて蛍の光のようにぼんやりと千切れ、夕暮れの薄暗い空気へ染み込んで消えてしまった。……どうも、少し眩暈がする。
 ともかく、ここが私の知る場所であるなら、左から二番目の棟の三階が私の家なはずだった。
 
 『●●●●』
 いや、確かに私の家である。なんとなく表札の名前が他人のもののようにも感じるが、●●●●は私の名前のはずだ。ほっとして家に入ろうとドアを回すが、鍵が閉まっていた。(カギハドコダッケナ) 両手でジーンズのポケットをまさぐるが、何も入っていない。尻側のポケットにもなかった。カバンを開いてしばらく探すと、暗い底の方に落ちていたカギを見つけた。
 しかし、開かなかった。どうやらカギが違うようだ。ということはつまり、ここは私の家ではないのだろうか。だが表札には私の名前がある。ますます様子がおかしい。何度も言うが、キツネに抓まれたような気分である。私はわけが分からず、その場でぼんやりとドアを眺めていた。
 (ドコカラドコヘカエルノカ?)思えば最近、私は帰宅することに強烈な嫌悪感を感じていたように思う。私は、何度となく家に帰る。こうして、どこからきたのかもわからず、ただ家に帰るだけの、なんとも矛盾した行動。痙攣のように繰り返される運動。振動。帰宅する、私は帰宅する。その脊髄反射。(ダカラワタシハ、キタクシナイヨウニ、キタクスルノダ。)

 「こんにちは」
上の階から誰かが降りてきた。「こんにちは」と私は奇妙に腰をかがめて会釈をする。
 「どうなさったんですか?」
私のことを知っているような口の利き方だった。「いや、どうにもないのです」と私は答える。
 「はあ」
といってその人は下の階に下りていく。嗅いだことのある香水の匂いがした。

 私はあの人に聞くべきだろうか。ここはXX町4丁目ですか。私の名は●●●●ですか。あなたは私を知っていますか。このカギはこの家のカギですか。あなたの名前はMさんでしたよね。ええ、おっしゃるとおり私は●●●●です。あの公園にいる子は私の子ですか、それともあなたの子でしたっけ。あなたはどこから来たのですか。え、上から?(ジャア、ワタシハドコカラ?)

 「すいません」
先の人が戻ってきた。
 「私が帰るまでこの子を預かっていてくれませんか」
公園にいた子である。そうだった、この子はMさんの子供だった。「ええ、もちろん」私は笑いながら答える。
 子供を残して、その人はまた階段を下りていった。

 どうやら、はっきりとしてきた。あの人はやはり上の階のMさんで、この子はMさんの子供だ。たしか今年で四歳になるはずだった。いつも黄色いTシャツを着ているので、黄色を見ると必ずその子の顔が浮かんでしまう。そして、やはり私の名前は●●●●なのである。記憶は連想によって甦ってくる。さっきまで感じていた朦朧感が、蒸発するようにじわりと消えていく。おもむろにカギを挿して回してみると、今度は当たり前のように開いた。私は次第にはっきりとしていく意識で玄関に入った。黄色いTシャツが駆け足で家に入っていく。ふと、私は壁に掛かった絵画に目をやる。
 意識ははっきりとしている。記憶は連想によって甦ってくる。しかし、この絵は私の記憶に何も訴えかけてこない。だが無理もなかった、それはフレームだけの絵だったのだ。フレームがあるからそこに絵がある、というわけではないのである。
 「こっち、きて」家の奥で黄色いTシャツの子供が柔らかく手招いていた。私は招かれるまま、一歩一歩とその子の方へ近づきながら、今後自分にはもう何一つ蘇る記憶がないのではないかと、妙な気分に浸りつつあった。それはしかし、思いのほか不安ではなかった。





自由詩 ●●●●の回帰 Copyright リンネ 2010-10-10 14:54:03
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