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犬女


 この国では乳首が三つとか乳房が一対以上ある女はイヌメと呼ばれ、豊
穣神に遣わされた乳母として少女の内に取り立てられた。
 次代の国王と王位継承者をその乳で扶育仕るという名誉な役職は、乳房
を二つしか持たぬ、ありていの愚民に許されてよいはずがない。それは豊
饒と繁栄の象徴が生まれながらに印された、稀少な牝だけが果たすべき大
任であった。
 仔細に検され合格した娘は王領の一隅に建つ寄宿舎に入れられ、家事見
習いの他はさしたる労役に従事することなく三度の食事を保証され、健康
体で慎み深い女に育つよう扶育大官直轄の監督下に置かれる。
 王家の子女が生殖可能な成熟に達する頃合を見計らって配偶者と小さな
家をあてがわれ、間断なく妊娠して継嗣様の御誕生に備える。そして吾子
用の一房以外の授乳器官は全て国主の扶育に奉職するのだ。
 その昔は貴賎が乳を分け合う不体裁が厭われ子は始末されたのだが、乳
の出が悪くなったり気がおかしくなる者が出る不都合が間々あり、いつや
らこのようになった由。

 無論、いたずら書きに等しい先祖返りの乳首の下に乳腺が発達すること
は稀である。しかし形骸こそは顕在を投影すべき、要するに解釈という御
神体の寄り代なのだった。
 一方、その寄り代には満腹の君が口寂しくおむつかりの時は、すわぶっ
てお慰み遊ばされるという実利面もあった。犬女には出産ごとに一定の労
賃が支払われ、それで里の暮らしを扶けることができたし、幸運にも王孫
の生誕にかち合えば、居城の一室に移されて授乳期間を吾子と暮らすこと
も許される。乳兄姉となった子は乳児の頃から毒見役を果たし、長じて遊
び相手ともなり、運が良ければ侍女や端女として側仕えを許され、倅なら
馬丁とか園丁とか、親父の職を継ぐ将来も皆無ではない。庶民にとって家
からイヌメが出るというのは、まさしくこの上ない果報であったのだ。

 実際、君主の姻戚・政敵が掃いて捨てるほどいる外の国々には、好んで
乳兄弟を高位の家令や近衛として身辺に配する向きがある。血を分けた同
胞と違って出自を思い上がらず立場を妬まず、その盲目的敬愛が至誠 ―
自己犠牲 ― を保証したからである。
 その意味では、傍系の発生からして困難な生殖形態を採る女王の国に、
一身に国家を体現する絶対君主を脅かす政敵はいない。従って下郎ふぜい
の忠心に恃むところはなかったが、それでも城壁の外に生茂る民草の迷信
深い者は家に犬神を祀ったり女房を牡犬とまぐわせたり、今少し現実的な
手合は娘の体に若干の細工を施したりして、自ら命運を切り拓こうとし
た。だが奇跡や祈願成就など怠惰なてめえの身に起こるはずもないこと
は、山師というのは心の底では知っているので、娘が感染症に罹ったり出
血多量や蜂毒で頓死しても、自責や悔悟の気遣いには及ばない。



「あれまあ、あれまあ、何ておかわいいんでしょう。利かん気の、かしこ
いかしこいご尊顔だこと」
 赤ん坊を扶育大官から抱き取った、真新しい茶色の仕着せを着た乳母は
呟いて、陶然と腕の中を見下ろした。気難しい瞑目の王子は口をもぐもぐ
動かし、乾いた唇の端からきれいな涎をのぞかせている。

 まるで夢の中にいるようだ、とても信じられない。ただ乳の出がよいと
いうだけで、自分がこんな栄誉にあずかるなんて。
 産の時期が合わずに乳が涸れ、離乳の子を引きはがされて、気に染まぬ
亭主と顔をつきあわせるだけの毎日を、泣きの涙で送っている者もいる。
まだ懐妊中で、中にも臨月の一人は口惜しさのあまり亭主に腹を踏ませて
産もうとしたが、血ばかり出るうちに死んでしまった。あとは乳が細かっ
たり出なかったり、流産が続いたり肥立たなくて臥せっていたり、孕まな
いので馘首になったり首を吊ったり、色々だ。
 それを思えば私は本当に運がよい。よいどころか強運だ。乳はよいのに
かさがある、歯並びが悪い、色が黒い、肥えすぎている、背が高すぎる。そ
んな理由で外されるのを尻目に勝ち残ったのだ。これからはきっと、よい
ことばかり起こるのではないか。

 でも、それにしてもお小さい。こんなに軽い子は抱いたことがあったろ
うか。まるで雌鶏みたいに軽い。羽根を毟ったらいくらの肉も取れない雌
鶏みたいだ。二人を病気で亡くしたが、どの子もこんなには軽くなかった
のじゃないか。皆すっかり大きくなって、村で達者にしていると聞く。
 月足らずなのか。だといいけれど。もしや臓物が鶏みたいにお小さいの
では。いやきっと、女王さまは召し上がり物がよいのだから、滋養に不足
はなかったろう。お体の芯はお丈夫なはずだ。私だって乳には自信があ
る。あの子を見てごらん、あんなに丸々とした赤ん坊なんて見たことがあ
りますか。それに何かあれば、すぐに大官さまが医官さまを呼んで下さる
だろう。私はただ、目を離さなければよいのだ。片時も目を離さないよう
にしよう。
 どうか神さま、青空を見せて下さる日神さま、雨を降らせて下さる水神
さま、こずえをやさしく揺らす鳥神さま。そして私たちに命を恵んで下さ
るありがたい豊穣神さま、どうか王子さまをお守り下さいますように。ど
うかどうか、あの子にも目をお掛け下さいますように。

 王子を死なせてしまえば打ち首になる我が身より、扉一つ隔てて控の間
にすやすや眠る吾子の命運を案じて犬女は慄いた。そして王子様の乳離れ
が一日でも遠くありますように、願い得るならば、お慰み役として残され
る幸運が吾子に触れてありますように、と祈った。

                             つづく


散文(批評随筆小説等) Queeeeen Copyright salco 2010-10-07 00:01:48
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