埋め込まれるもの
番田 

今も思い出されるあの日、私は夢見ていたハワイで楽しいディナークルーズに参加することができた。怪しい熱帯樹林の繁る真夜中に訪れたシンガポールでは、美しい夕暮れをぼんやりと見ることができた。そんな気のしているような窓の外を今日も何も無い日本の景色が流れて行く。何も差し出されることも無いままの外は真っ暗な夜となっているけれど、そこは景色の美しい観光地である場合もあるのかもしれない。なんとなく目的地へと進んで行くだけの寂しい寝台車の客室にもたれかかっているだけのようにも思えてくるー。ニューヨークのメトロの中で見たものは世界の中における人間たちにとっての現実の厳しさだった。ハーレムではバスケットシューズを履いた子供や大人たちが群れとなって客車の中に乗り込んできた。無愛想な顔をした地下鉄の車両が急ブレーキをかけていくつもの駅に停車したものだ。…思い出すとそんな気がしている。例えば南フランスのマルセイユでは予約していたはずのホテルを探しながら必死でトランクを引きずったものだ。結局ホテルは見つからずに素敵な金髪の少女の家に連れ去られた。そんな気がするこの家の窓の中に巡る風景は、一秒ごとに冬に向かっていくのだろう。私には年末に歌われる様々な歌がそこで、急にいくつも思い浮かんだ。そして夜の日本は何故こんなにも平和なのだろうと思わされた。イギリスという国もヨーロッパの中では割合に犯罪の少ない国だと聞いた。私はきっとイギリスでビールをたくさん飲むべきだったのかもしれない。アイリッシュパブで見知らぬ外人たちに揉まれながらホテルに帰って、そのまま楽しい余韻に浸りながらベッドでうたた寝でもしていれば良かったのかもしれない。そんなふうに私は夜明けの知らない夜の中で色々なことを考えている。そんなふうに色々なことに対して頭を巡らせていると何か不況とはいえ我々の状況は今日あまりにも恵まれ過ぎているのかもしれないと思った。そして思った。私は最近まったく運動していないのではないかと。夜の中で、あるいは雨の中で、必死で運動すること自体が何らかの突破口、あるいは解決策になるだろうことなどとは知らずに、今日も誰にも何も言われることのないまま部屋の中にたたずんでいた。そこで色々な旅行雑誌をめくっている私は、いつの間にか思い描いている、パリのオルセー美術館の前の行列でヤンキーガールというか、ハーレム出のようなそんなイメージの思い浮かぶアメリカ人の黒人の女の子に英語ができるかと聞かれて、前に割り込まれそうになったものだ。日本人のように他人のものをそこで何ひとつ自分のものだと思わないということは、それはそれで平和な感覚なのだろうかと疑問に思う今日も、私は延々と、どこまでも続く夜の川縁を歩いてきたのだけれど、ブラジルだったら素敵な女の子に羽交い締めにされていた可能性もある。それにしてもどんな国でも労働者に対しては、何か国からの手厚い保護支援策でもあるのだろうか。


私は最近知人の絵の展覧会に行ってきた。しかしながら展示された絵画そのものは描かれているというよりは、これは、レリーフ作品なのだといった方が適切なのかもしれない。しかし作者の中では物質は塊というより諧調として意識されているのはまちがいはなかった。私にはなんとなく作品が顔のように見えたり、足であったり、色々なものに見えてきていた。その知人は何年も絵を描いているような類いの人間だった。私はそこで知人の、何年かに一度開いているという展覧会の絵を見たのだ。絵を見た私はこのような感覚はあまり美術館に行っても味わうことなどできないのかもしれないと思わされた。そこに飾られていた絵は言葉を見ている時のイメージのように、私の頭の中で右に左にスライドさせられていた。絵は素朴な陶器のようなもので出来ていて、支持体として強靭なアルミが背景に使われていた。私は今日もぼんやりとこの絵の写真の載せられている葉書を見ていたのだが、これはぼんやり見ているとなんとなく背景に描かれている文字のようなものたちが、人に錯覚されているものなのではないかと思わされたけれど、色々なものに見えていた。しかし多分これは錯覚ではないことは間違いはなかった。美術館にあるような絵は完全にイメージが顔料によって定着されているので、そうであるがゆえに権威ある美術館などに掲げられているのだけれど、彼のこれはなかなか鑑賞者のイメージを引き出す面白い作品だと思った。私は今もその絵のことを考えていた。今もその葉書が私の持っている手元にあるのだが、絵の中にはハシゴのようなものも脇に描かれていて、背景にはさきほどのイメージを呼び起こす文字のようなものが擦れるようにして、だがしっかりと定着されているのである。


散文(批評随筆小説等) 埋め込まれるもの Copyright 番田  2010-10-03 01:19:21
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