割烹着
板谷みきょう
ほんのさささいなことで
まほうびんをわってしまった
あの頃は
長屋の辻にある共同の井戸に
水汲み用の手押しポンプがあった
木綿の濾し袋が先に付いていて
最初に水を汲むには
呼び水を入れなければ出てこなかった
ガチャガチャと空音が続くと
母が誘い水を入れてくれて
ほれほれ、さぁさ。
みきょー。がんばれ。
ガチャガチャに続いて
暫くすると
ザブザブと水が溢れ出た
母はその水を金だらいに入れて
薄暗い台所で米を砥いで
釜でご飯を炊いていた
父がいつまでも冷めない魔法瓶を
買って帰ってきてから
随分と重宝になったと嬉しそうに
母は近所のおばさんと話していたんだ
学校から帰ってきて
お下がりのランドセルを片付けて
それで、どうしたんだろう
それから、どうなったんだろう
理由はもう覚えてないけれども
ほんのさささいなことで
まほうびんをわってしまった
今となってはもう
長屋も
共同の井戸も
手押しの水汲みポンプも
ないけれども
枯れそうな想いで
心が渇き切った時に
母の白い割烹着を着ていた姿と共に
ほれほれ、さぁさ。
みきょー。がんばれ。
ほんのさささいなことで
まほうびんをわってしまったけれど
今では、そんな声が聞こえる