結婚式、ラップタイム、二日酔い
ブライアン

 友人の結婚式で訪れた故郷。山が四方を囲んでいる。幾多の虫の音が聞こえる。駅のホームには人の姿が疎らだった。日焼けをした高校生の男女。運動部の学生だろう。大きなボストンバックに汗をふくためのタオルが、皆一様にぶら下がっている。
 秋口に入ると、急に寒くなる。東京の執拗な残暑とは裏腹に、あまりにもさっぱりとしていた。四方を囲む山は、緑の葉を茂らせて掃いたが、明らかな空気の違いに秋が訪れ、やがて冬になるだろうことを直ぐに理解するだろう。最後の繁茂とばかりに、次第に乾いていく空に鮮やかな色彩を残そうとしているようだった。
 小さなカバンから、ポータブル音楽プレイヤーを取り出し、定子ボタンを押す。蝉の声がする。蟋蟀の声もする。ちょうど、秋と夏が混ざった季節なのだ。トンボが駅前の駐車場に無数に飛んでいた。風が吹く。既に、過去形になった土地だ、と気づかせる、冷たい風。友人の招待状を握り、スーツの内ポケットにあるお祝いのお金を確かめる。
 既に知っていることだった。折を見て帰るたび感じることでもあった。もう、この土地は過去の土地でしかない、と。いつか戻るのだ、と信じてみたところで、道しるべにしていたパン屑は、烏に食べられたようだ。何度も振り返り、パン屑を探してみたところで、一向に見つかりはしない。もう、故郷には戻れないのかもしれない。
 
 宿泊する予定のホテルにチェックインし、かつて毎日のように自転車で走り回った道の上に立つ。この道がどこへ続いているのか。田んぼの畦道にいたるまで、すべてが手に取るように分かる。この道が続いているのは、東京だった。山を越えて、南へ進む道。かつては、合宿所へ続く道でしかなかった。

 合宿は夏休みと冬休み、春休み、と3回あった。その中でも冬休みの練習は壮絶だった覚えがある。故郷は雪が積もるため、冬はほとんど走れない。そのためだろう。冬合宿は顧問の先生が日ごろの鬱憤とばかりに、思う存分走らせた。その上、生徒達は走り込みが出来ていない。合宿初日から急激な筋肉痛が襲う。どれくらいか。手を使わないと階段を昇れない程度の筋肉痛だ。それが2日目からずっと背負わなければいけない負荷になる。合宿は1週間ほどだっただろうか。でも、記憶の中では2週間ほどやっていたような気がする。時間が苦痛に溶けていくようだった。
 練習のピークはいつも木曜日あたりで、走りこみに慣れてきた頃合。待っていた、とばかりに、メニューを見ただけで吐きたくなるような練習が待っていた。その日を越えると、練習は収縮していく。基本的なメニューは大して変わってなかったのかもしれない。ただ、最終日までの残り日数を数えることが出来るようになる。これはとても重要なことだった。
 陸上部だったが、女子部員も、女子マネージャーもいなかった。合宿は他校と合同でやることが多かった。他校には女子部員も女子マネージャーもいた。それは合宿でしか味わえないものだった。他校のマネージャーがストップウォッチを手にし、ゴール前でタイムを読み上げる。いつもやる気のない副顧問のしゃがれた声ではない。
 周回をトップ通過するたびに、彼女達が好きになってくれるのではないか、と邪推しながら必死に走る。そんな理由で、オーバーペースで初めから走っても、案外後半まで持ってしまったりする。その時は、彼女の目線よりも自分の能力に驚いてしまって、彼女の読み上げる声を聞くのを忘れてしまったりして、後悔する。
 練習のラップタイムを書いたメモを彼女達から受け取る。その下には申し訳程度に、お疲れ様でした、明日もがんばりましょう、などと書かれている。その紙をだれが持つかということでその夜の会話は盛り上げる。

 2次会、3次会、と終わり、ホテルに帰ってきたのは深夜4時くらいだった。趣味も嗜好も合わない友人だった。でも互いに不思議と話をした。連絡も大して取り合うことはない。でも帰省すると必ず飲みに行った。今のことを話すことはもうほとんどしない。お互いの価値観が全く違うことを、お互いに感じているからだろう。それでも、馴染めない気持ちが生じるのは最初だけだった。趣味や嗜好の会う友人と話しているよりも、もっとぴったりと、馴染んでいく。過去の話を、いつも変わらない思い出話をして、いつ、東京さ帰んな?、と尋ねて、明日、と答える。早ぇな、と友人がいい、間をおいて、もっといればいいのに、と続ける。ビールのジョッキが、日本酒のコップに代わっている頃の話だ。高校時代だったら、その頃はもう、女子を呼ぼう、という話になっている。結局誰もそんな伝はないのだ。そもそも連絡してくれたところで誰も来てくれることはない。女子は男子よりも賢い。
 日本酒の入ったコップをテーブルに置き、いつでもこっちゃ帰ってこいな、と言う。いつでもだ。もし、それに返す言葉があったなら、といつも思う。そして、ああ、と曖昧な言葉で相槌をする。
 
 目が覚めるとホテルのベットの上だった。太陽が窓から差し込んでいる。山や空の色が鮮やかだった。かすれた雲が、山の頂のほうにある。もう直ぐ紅葉が始まるのだろう。蝉の声がホテルの部屋に聞こえてくる。二日酔いだった。頭痛がする。うまく開けることの出来ない眼を、無理やり開く。リモコンを探し、ホテルのテレビをつける。田舎訛りのニュースキャスターが天気予報を伝えていた。今日は晴れるらしい。
 一体誰が、パン屑を食べたのだろう。もう、道に落としていったパン屑が見つかることはない。再び戻れることを夢見ているのではない。青い鳥を探していくのだ。そして、この土地へ再び戻れるように、今はこの二日酔いを乗り越えなければいけない。


散文(批評随筆小説等) 結婚式、ラップタイム、二日酔い Copyright ブライアン 2010-08-11 14:52:51
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